僕は忘れない、あの日のことを

140字では伝えられない。

その一瞬は永遠となるか

前回の記事を見ると2月26日付で如何に放置していたかが可視化されてしまっていた。ついでにブックマークからブログトップを開くと自動ログインが切れていて書く気すらなかったことが丸分かり状態だった。まあいいよね。定期的に更新するなんて言っていないし。

 

GW中特に遠出することもなくごろごろしていたら、あっという間に終わりを迎えつつあるわけですが、それはともかくGW期間中に映画を6本くらい借りてしまったので頑張って見ているわけです。多い。まだ3本くらいある。多い。

 

頑張って感想を書きます。そういえばラ・ラ・ランド見たのに感想書いてないな。まあ各所で絶賛されているのでそういう感想を参照にしてください。(投げやり)

 

 

ザ・ウォーク

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大道芸人フィリップ・プティが綱渡り師を志し、そしてワールドトレードセンターの二棟を綱渡りするに至るまでの物語。

 

怖い。

ぼく高所恐怖症なんですよ。腰浮かしましたもんね。いてもたってもいられない感じで一部立って見てました。映画館の迫力でこれを座ったまま見るの拷問じゃないですか。怖い。一方でその恐怖感が高さの美しさと繋がっているわけです。質悪い映像美だ。

 

作品全体の雰囲気は非常に明るいのだけど、準備(無許可で綱渡りをするのは違法です)でも綱渡りでもスリルを失わないのはフィリップの共犯者たちが「普通の人間」だからなんでしょう。捕まるのは怖い、高いところは怖い。(そういう人間たちに容赦なく任務を与えるさまにフィリップの人間性が出ている。特に地上400mで高所恐怖症の男に作業させる様は異常だ)

 

作品のテーマは一瞬と永遠。

フィリップが違法行為の綱渡りを行うのは永遠に名を残すためだったが、ワールドトレードセンターを綱渡りする中に永遠を感じる。綱渡りにおいて「敬意を表す」の意味が分からなかった彼がはじめて礼をするのは、綱渡りの外ではなく、その中に本質を見たからだ。

アイルトン・セナが時速300kmで神の世界を見たといったが、将棋にも思考の最中時速300kmの世界がある」

 とは羽生三冠の言だけど、フィリップが見たのも『時速300kmの世界』ではなかったか。極限の集中の中で不確かなはずの一歩は確固たる一歩となる。「ボールが止まって見えた」かのように、あらゆる状況に即座に対応できるよう一瞬の感覚が長くなっていく。

フィリップは長くその感覚を味わおうとするが、その一瞬は本当の意味で永遠ではない。レースには終わりがあり、将棋にもいつか終局が訪れる。綱渡りも同様だ。人はワイヤーの上で生きていくことは出来ないし、大きな負荷がかかっているワイヤーにも限界がある。ワイヤーから降りる中で、その永遠は元の一瞬へ戻っていく。

 

その芸術は一瞬で終わらず、フィリップの名を残すだけで終わるわけでもなく、ワールドトレードセンターへ永遠の命を吹き込んだ。フィリップに贈られたワールドトレードセンター展望台の期限が「永遠」であったように。 しかしその永遠が本当の意味で永遠足りえなかったことは、誰もが知っている。地上400mの恐ろしくも美しい光景もニューヨークの象徴であったその威容も、永遠の美であり、過去の一瞬の美でもあるのだ。

 

一瞬と永遠がテーマになることは見ればわかる(このテーマで書こうと思ったら先に本質をばしりと書かれていたのでぼくは泣いた。パクリじゃないからな)

amberfeb.hatenablog.com

 

 

王道――その挑戦的な揮毫

第75期A級順位戦は2月25日に全日程を終えた。竜王戦のごたごたがあって、A級順位戦も消化不良の一面があったことは否定できないが、8勝1敗のすばらしい成績を残した挑戦者には誰も異論を挟まないだろう。稲葉陽八段は昇級一期目にして挑戦権を掴んだ。

 

稲葉八段は名人佐藤天彦と同い年の関西の棋士だ。個人的には、やや受け将棋よりではないかなと思う。7月の王将戦一次予選では生粋の攻め将棋の畠山鎮八段に、忍者銀という守りが薄い代わりに攻撃的な戦法を使ったにも関わらず、最終的には受けまくって勝っていた。

 

佐藤名人も昇級一期目で8勝1敗の成績を残して挑戦権を獲得し、王者羽生善治を下して名人となった。今度は立場を変え、勢いに乗る挑戦者を迎え撃つことになる。ところで、名人は棋戦叡王戦も優勝し、名人戦が行われるのとちょうど同時期に、電王戦で将棋ソフトPonanzaと対局することになる。Ponanzaはとても攻撃的な棋風だ。そしてべらぼうに強い。名人はタイプの違う強敵と同時期に戦うことになった。苦戦は必至だろう。

 

佐藤名人はよく「王道」と揮毫する。ぼくは最初みたときとても挑戦的だなと思った。自分の指し手は王道である、少なくとも目指す先は本筋そのものであると意思表明するのは勇気がいることだ。たとえばぼくが自分の将棋を王道と称したら死ねあんぽんたんと言われておしまいだ。プロ棋士の中だって、自分の将棋は王道ですと言い切れる人はそんなに多くないと思う。将棋の宇宙の中で、自分の選ぶ指し手こそが王道であると言い切るのはとんでもなく挑戦的なはずなのだ。

 

王道。目指す目標として書いているのかもしれないが、佐藤名人の将棋は「これが王道か」と捉えられるようになっている。奇抜に走らず自然な指し手を積み重ねて自然に勝つ、王道の将棋。この揮毫はもう佐藤名人の棋風を表す言葉となった。その言葉が挑戦的と言う人はもういないだろう。

 

四月から名人戦・電王戦と、苦しい戦いが続く。それでもきっと、名人の将棋は王道から外れない。四月からの戦いを楽しみにしている。

感想文の難しさ/思い出したようにブログを更新する理由

なんでブログはじめたのといわれるとまあ140字以上書きたいことがあったからなんですが、かといってそれを書き終わったらそれで終了というのもちょっともったいないので少しは有効活用しようという話なんですね。

 

それで何を書こうかなあとなったとき、敬愛すべきブログ先輩こと宇宙、日本、練馬に倣って映画やら本やらの感想を書こうかなとなったわけですね。(更新頻度の高い良いブログです!)(ものすごい馴れ合い方だ)

 

といっても僕は読書感想文の類が死ぬほど苦手だったので毎回苦慮します。

自分が作品の本筋からかなり離れた感想を抱いていると思うことは結構あって、だけどそれを修正してしまうとそれお前が文章を書く必要あるのという話になってしまいます。このブログを見る以上、恥ずかしいことに見に来るのは僕の感想なわけですよ。他の誰かのものではなく。とすると、その作品のバックボーンや理屈から言って作品が伝えたかったことが何であるか下手に推察するより、お前がどう思ったのかの方が、今この場においては重要なことじゃないの、となるわけですね(もちろん作品の本質から離れないところで感想・意見を綴った文章は無数に存在していて、こういうのが"良い"感想文なのだろうなと思います)

 

でも、虚心にそれを書くのは結構な訓練が必要だと思うのですよ。

「ビジネスの世界の論理といのちの電話の世界って、全然違うことが分かったんです。研修では『自分の気持ちは何ですか?』という訓練をやるんだけど、最初は自分の気持ちを全然出せなかった。ビジネスの世界では、自分の気持ちは置いておいて『事実はどうなんだ?』ってやる。ここの研修はそうじゃない。『あなたはどう感じたの?』ってずっと聞かれます。それまでは自分の気持ちに蓋をして生きていたから、最初は苦しかった」

 引用元:なぜ、あなたの声を聴き続けるのか 「いのちの電話」相談員 - Yahoo!ニュース

 

国語教育の敗北というのは流石に言いすぎですけど、とても成績の良かった(謙虚な表現)僕にとっては現代文というのもなんて書いてあるのという話になっちゃうんですよね。センター試験とか全体的に最大公約数の回答を選ぶ感じですものね。でもそれはここで求められる能力ではありません。

 

僕はどう思ったのか。これを書くのも訓練が必要だし、そもそも自分がいつ・どういう感情を抱いたのか・なぜ抱いたのかと感性を研ぎ澄まさなければいけないですよね。

 

日常生活でこういうことをする経験はあまりないので、まあこの場を借りてやってみたいわけです。訓練しておけば人に本や映画を勧めるときにちょっと得をするかもしれませんし。と、まあ、そういうことを5%くらいは考えて、すんでのところで放置はやめようと思うわけです。後は文章の構成とか文章力とかちょっとだけでも向上したら良いなあと思いますね。どっちかというとこれは触れる文章(量)に拠るのではと思わなくもないですが。

 

ちなみに残りの80%は惰性です。前に映画見たときも更新ししたしなんとなくね。

残りは見栄。放置ブログって恥ずかしくない?

我々が信仰するもの

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人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです

 

というわけでスコセッシの『沈黙-サイレンス-』を見ました。ちょうど長崎にも行きましたからね。といっても平戸も五島も行ってないしトモギ村の元になった外海地区も池島にしか行ってないのですが。そんなわけで舞台になった場所はだいたい通ってしかいないのですけど、ものすごく海が綺麗な場所でしたね。遠藤周作文学館も外海地区にあるようですが、時間の都合上いけませんでした。いつか行ってみたいところです(その前にまず原作を読め)

 

はい、原作未読(あらすじはwikipediaで知りました)です……

 

江戸時代、日本では苛烈なキリシタン禁教政策が敷かれていた。そんな中でヨーロッパに日本で布教を行っていた神父フェレイラが棄教したという知らせが入り、フェレイラの弟子であったロドリゴとガルペは師の探索と日本への布教という使命を帯びて、危険を冒して日本へ密航を図る。日本へ上陸した二人の神父の信仰心は、激烈な弾圧の前にどう変化していくのかーー

 

そんな感じです。

作中で再三にわたって言われるのが、踏み絵は形式だけのことだからということです。悪人ならぬ日本のお役人たちは、当然の倫理観として殺さないで済むなら殺さないほうが良いし踏んでしまえという。でも多くの信徒にとってはそうではないために結果として殺されてしまう。

 

ロドリゴは最終的に踏み絵を踏み棄教することになるのだけど、その本心は分からない。フェレイラも終盤信仰を捨てきっているわけではないことが示唆されている。筑後守はロドリゴに対して、お前は私に負けたのではなく日本という沼地に負けたのだと言っているのだけど、このことを鑑みると勝ち負けが逆転しているように思える。つまり、布教という使命は教義を変容させていく日本では確かに上手くいかなかったのだけど、信仰心まで奪うことは出来なかった。形式だけだから、というのは心を操作できないことをはっきり明示している。司祭という根を刈り取ったからもう良いと筑後守は話すが、その後この地ではキリスト教の信仰を取り戻したことを我々は知っている。(カクレキリシタンという別の宗教も確かにあるのだけど)

 

多分主題は、無知を啓くみたいな感覚だったロドリゴが、弱者と共にあり共に苦しむという真の信仰を手にするということなのだろうけど、僕は形を廃して真の信仰にたどり着く、というように見えるなあという感じにも思えた。

 

しかし舞台になった1640年からでも200年以上の時のあいだ、長崎で信仰を保ち続けたのだなと思うと、やっぱり圧倒されてしまいますね。僕が訪れた浦上天主堂は江戸から明治初期の弾圧や原爆の被害を受けてなお、あの場所に建てられたのだと思うと胸を打つものがありますね。

 

これはもう感想というより完全に自分語りなんですけど、個人的に一番心に残ったのは、拷問が繰り返される一方で神の奇跡と勝利は訪れず、神が沈黙を貫くことでロドリゴの信仰心は揺らいでいく。その中で、「自分が信仰しているのは無ではない」と必死に言い聞かせるところです。

 

僕は信仰があるかないかと聞かれればあると思っていて、たとえば御守りは徒に踏まないし作中みたいに祭具に唾を吐くとかも罰当たりだからそうそうしたくない(罰当たりというのも信仰がないと生まれない発想だ)ですけど、じゃあ宗教があるのかと訊かれるとありません。多分本当は仏教徒のはずなんでしょうけど、菩提寺も知らないし浄土真宗か浄土宗か日蓮宗かも怪しい人を普通は仏教徒とは呼ばないでしょう。もちろん神道でもないしその他の宗教徒でもありません。初詣に神社行くけど。

 

要するに信仰はあって宗教はないわけです。僕は多くの日本人がそうじゃないかなと思っています。それで僕はたまに、自分が信仰しているのは一体なんであるのかということを考えるのですけど、そうなると無であるとしか言いようがありませんよね。漠然と何かを畏れているというのが正しい。

 

だから、神を信仰していたはずのロドリゴが陥った感覚というのはそういうのにちょっと近いのかなあと思ったわけです。それでも彼は無ではないものへの信仰の火を灯し続けるのだけど。

そういえばクリストヴァン・フェレイラとか西洋人の格好が完全にジェダイでしたよね。クワイ=ガン・ジンだからね、仕方ないね。あと僕はガルペ役のアダム・ドライバー演じるカイロ・レンくんを熱烈に応援しています(完全な蛇足)

 

 きっと読むから許して……

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

 

希望を見出すまでの物語

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というわけで?遅ればせながらローグ・ワンを見ました。

 

ローグ・ワンはスターウォーズスピンオフ作品の中でスターウォーズエピソード3と4の間に位置する話で、具体的にはエピソード4に登場するデス・スターの設計図を入手するまでを描いた映画。

 

作中の主要人物はみな「普通の人」で、特殊能力があるわけでもないし、フォースを明確に感じられるわけでもない(チアルートは完全に何か憑いてる能力だけど)。ローグ・ワンという言葉的に鶏鳴狗盗とかちょっと近いんだろうか。違うか。

 

さて、作中では希望を繋いでいって最後に勝利する、みたいな言葉があるのだけど、実際のところこれはその希望を見出し掴み取るまでの物語と感じた。当初銀河帝国に対抗する反乱軍は及び腰で、自分が生き延びるために味方も手にかけるような人々だし、反乱軍と距離を置くソウ・ゲレラは、普通に民間人を巻き添えにしながら帝国軍と戦っている。積極的に銀河帝国を覆したいというより、支配からなんとか逃れたいという感じで、想起されるのは残党狩りから身を寄せ合って隠れている、みたいな感じ。生き延びるのに必死だ。

 

これは作品に何度となく登場する「後ろ髪を引かれながらも、誰かを見捨てて逃げる」というシーンに象徴されている。主人公のジン・アーソは幼少期に母が撃たれるのを見て逃げ出すし、逃げられないというソウ・ゲレラを置いてデス・スターの暴力から逃走するし、父親の亡骸も回収できずに逃げるしかなかった。暴力や理不尽に対抗する術を持たなかったわけだ。未来の勝利のためではなく、ただその場を生きるために行動しなければならない。

 

ゲイレン・アーソの生み出したデス・スターの欠陥はそんな彼らが見出した唯一の勝機なのだけど、そういう状態にあった反乱軍はそこでも生きるための行動を――降伏を選ぼうとしてしまう。評議会で、何度となく帝国軍と争ってきたはずのジン・アーソが、戦うべきときは今と叫ぶのは、ただ戦うのではなく、前向きな意味で戦うことを意味しているわけです。そしてデス・スターの設計図を入手するための戦いに(結局なし崩し的にだけど)突入していく。

 

もちろん帝国軍と反乱軍では力の差は明白なのだけど、意義のある戦いの中で彼らは決死の行動で勝利をつかもうとする。これまで生きることが最重要課題だった人々が。そして人々の死と覚悟の上に、最後に「新たなる希望」が生まれるのだ。

 

死力を尽くして戦うこのラストバトルはもうこの作品の90%くらいを構成しているくらい超熱い。あとはなんといってもチアルート・イムウェを演じるドニー・イェンです。とんでもないアクションキレキレ野郎ですよ。こいつ格好良すぎないか。

宇宙の中心にあるもの

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12月31日公開というチャレンジングなことをした映画『MERU』を見ました。

まあチャレンジングなのは公開日だけではなかったわけですよ。

 

MERUは、未踏峰だったヒマラヤ山脈のメルー中央峰、通称「シャークスフィン」と言われる標高6250mの山に挑む三人の登山家のドキュメンタリー。ドキュメンタリーという点が大切で、クライミングシーンにCGは一切ない。要は全てセルフィで撮っている。撮影者はジミー・チンとレナン・オズターク。そのため映画の迫力は圧倒的で、挑むもののの巨大さ、自然の美しさ雄大さを余すところなく映し出している。まあ広告ポスター写真も出来が良すぎるからわかるでしょ。あとはとりあえずこれを見てくれ。

 


12.31公開 映画『MERU/メルー』未公開シーン 特別ムービー

(高いところが苦手なのでめっちゃ身が竦みました)

 

登山は多くのものを与えてくれる。しかし安全が保証できない以上、登山は正当化できない。

この映画の良いところは単に登山のことを美しい映像で流したということではなくって、三人の挑戦者――コンラッド・アンカー、ジミー・チン、レナン・オズタークの三人――がそれぞれ迷いや躊躇いがありながらメルーに挑んでいくという、人間を描いた物語であるところだ。コンラッドは師も友人も山で失っているし、ジミーはメルー兆戦前に九死に一生を得ていて、自信を失っていた。

 

その中でもレナン・オズタークは壮絶で、挑戦の半年前に大怪我を負い、元のように動けるかどうかさえわからなかった。その上、今後は高地では脳梗塞になる可能性があるという。コンラッドやジミーとしても、そういう不安要素を抱えた人間をチームに加えることで、チーム自体が危険になる可能性も考慮しなければいけない。それでもレナンはメルーに登ることを諦めないし、二人もそれを止めようとはしなかった。

 

ジミーはインタビューでこう話す。

登山家やプロの写真家として人生の大半を山に捧げてきた私は、いつも思っていました。高地でのビッグウォール・クライミングの過酷さを、観客の皆さんが本能的に感じ取れるような映画を作りたいと。そこにはどんな見返りがあり、どんなリスクや犠牲が伴うのか、少しでも多くの人に知ってもらいたかったのです。
それと同時に、情熱の追求は必ずしも美しいものではないということも伝えたかった。そこには葛藤や、迷いや、苦しい妥協が溢れている。

 

個人的には、何故山に登るのかという問いに対する答えをこの一本の映画に収めようとしているのではないか、というように感じた。大きなリスクや犠牲があり、葛藤や迷いがある中で、どうして誰も登頂できなかったほど危険で困難な山へ登ろうとするのか。

 

きっと彼らは自分の能力や精神力・仲間への信頼を厳しく問われる山との戦いの中でこそ、自身の能力や絆に確信を持つことが出来るし、「いま生きている自分」を実感することができるのだろう。困難であればあるほど己の限界が強く試され、打ち勝つことが出来ればより自信を深めることが出来る(決して過信ではなく)。

逆に失敗は自分の能力への思いの揺らぎを意味する。でも山で失ったものは山に勝つことでしか取り戻せない。だから彼らは何度でも挑戦するのだ。

 

生きる、それは戦うこと

『僕たちは、どうして将棋を選んだんでしょうね』

『さあ……ただ、私は今日はあなたに負けて、死にたいほど悔しい』

 

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そういうわけで映画『聖の青春』を見ました。とても良かった。

 

聖の青春は村山聖という棋士の人生を描いたノンフィクション。映画はそれを元にしたフィクションですね。わりとエピソードや対局(違う棋戦の棋譜を使っていたりする)に改変がありますね。そういうわけで原作も読んでくれ。深夜1時43分まで村山聖と戦い抜いたのは、本当は丸山忠久というストイックでミステリアスで健啖家の男なんだ。

 

5歳でネフローゼになり、その入院中に将棋と出会った村山聖は、将棋にのめり込み、ついにプロ棋士となる。才気抜群で西の怪童と称された彼の前に立ちふさがったのが、東の天才、羽生善治だった。負けたくない、名人になりたい、その思いで強くなる村山だったが、その矢先膀胱癌をも患ってしまう。命のタイムリミットが迫る中、村山は14度目の羽生善治との対局に臨む。『羽生さんが見ている海はみんなとは違う』その海を共に見ることは叶うのかーー

 

という感じです。

 

原作は師匠の森信雄との絆みたいなものが話の主流だと思うのですが、映画は羽生善治とのライバル関係がメインストーリーとして描かれます。主演二人の話通り、これに一番近いのは恋愛物ですね。村山聖は少女マンガが好きなシャイボーイなので、こっちがヒロインっぽい。ただ二人の会話シーンって考えると実はほとんどないんですよね。ないのですが、初対局から大一番の『75飛車』、そして最終局と所作や表情が変わっていく。関係性の深化がそういうところに出ているのですよね。

 

『俺かてなあ、俺かて命かけて……』

『お前のどこが命かけとんじゃ!』

 村山の「命を懸ける」という言葉の重さは尋常ではなくって、本当に命を削って将棋を指している。きっと病と闘い続けてきた彼にとって、負けることは死ぬことと繋がっているからだ。だから勝ち負けにとても敏感で、負けたけど次がある、みたいな考えを徹底的に退ける。でも将棋の恐ろしいところは、どんなに優勢だったとしても最後の最後で間違えばあっという間に逆転してしまうところにある。

 

強くなってとうとう羽生と互角に渡り合えるようになる、と思ったところで癌で手術が必要といわれた村山にとって、それは終盤のそういう落手に近い感覚があったのではないか。将棋の世界ならその落手は自分が悪い。しかし病気はそうではない。運命としか言いようがないものが未来を闇に閉ざすのは、仕方ないというよりただ悔しかったのではないだろうか。物語の終わりの方で、将棋年鑑のアンケート(実在します)で「神様に一つだけ願いにかなえてくれるとしたら」という問いに対する答えは、その悔しさを表しているように思えた。自分の人生も運に左右されることなく、自分の力だけで切り開きたい。そして将棋界は実力が全ての世界である。名人になりたいというのは夢ではなく、きっとその表象なのだ。

 

 

 ◆

村山聖の方は実際の映像をほとんど見たことがないので判別できませんが、東出昌大は完全に羽生善治でしたね。めっちゃ似てるからこそ身長が10cmくらい? 大きいとこがすげー違和感になるんですよ。羽生さん身長伸びた?

 ちなみに一番これは羽生先生か?ってなったのは村山先生が「羽生さんはおいしいものは食べ飽きてるだろうから」と冗談を言ったときに「そんなことないです」って笑うシーンです。これはマジで羽生先生が言いそうな感じでしたね。あーこういう話し方するよなあみたいな。見る人が見たら分かる。

 

そういえば広告はトップのこれが一番好きですね。やっぱり村山聖は戦う姿と意志ある表情かなと思う。

ちなみにタイトルは『将棋界の巨人 大山康晴 忍の一手』の章タイトルから。69歳A級棋士としてなくなった大山も晩年は癌と闘病しながら死ぬまで指し続けた棋士ですね。

 

映画の中に出てくる荒崎六段というのはこの人が元ネタですね。新車の中で村山九段に嘔吐されたのは佐藤康光九段ですけど。登場人物を減らすためにエピソードをまとめてるんでしょうね。

 

深夜1時43分までかかった激闘とは本当はこちら。

先崎学六段(当時)「無神論者の僕だが、あの状態で、あれだけの将棋を指す奴を、将棋の神様が見捨てる訳がない。本心からそう思えてならなかった」 | 将棋ペンクラブログ

 

こっちは追悼文。絶対に読んでくれ……

先崎学六段(当時)「彼が死ぬと思うから俺は書くんだ」 | 将棋ペンクラブログ

 

 

聖の青春 (講談社文庫)

聖の青春 (講談社文庫)

 

 

 二海堂くんは村山九段を元に作られた人物なのです。