僕は忘れない、あの日のことを

140字では伝えられない。

何者にもなれない僕たちの情熱の行き場

前回、何かと戦いたい人って世の中わりといる気がします。と書いたけれど、世の中こういう人もいるよね構文を使っているときの僕は実のところだいたい自分語りをしていて、つまりこれも僕のことといえるわけです。もう少し具体的に言うと、情熱を燃やせるものが欲しい。

 

と書くと今いる立ち位置で全力を尽くせよと言われるだろうなあという気がします。でも、でもですよ、本当に結構多くの人が私と似たような感覚を持っている気がするのですよ。二つ創作から引用してみましょうか。

 

あたしは海より深く人を好きになったことなんてこの年までないけどね。ないから生きていけるのよ。毎日楽しく。(海よりもまだ深く)

 

中途半端だということにずっと引け目を感じていた。私には何もないと思ってきた。何もかも中途半端で、靴を愛したいとか誰かを愛したいとか強く望んでいながら愛し切れないでいた。愛せるものが欲しくて焦った。(スコーレNo.4)

 

 愛という言葉を使っているけど、どうでしょう。情熱、もっと言えば心血を注げるものを欲しいと思っている人はいて、だからこそこういう言葉が作品に出てくるわけでしょう。二つともそんなものそうないよという文脈ですけど、そんなものはないんだよという意味で出てくるというのは、まあ世の中のほぼ全ての人は特別な何者かにはなれないからなんでしょうかね。それに、それほど強く情熱を持てる人自体も実はそんなにいないのでしょうし。

 

でも人生はそれでも続いていて、そういう思いを抱いている人々の情熱は行く場所を失っていると思うのです。その情熱が何者かになれた人の情熱より実際は全然熱量が乏しいとしても、です。

 

僕は求道者として生きる棋士の中に中途半端な自分を見ていますし、甲子園なんかが好まれるのも、そこら辺に理由があるのかなという気がします。向こう側には何かに全力になれなかった自分像があるのです。

 

そして僕は今もエネルギー・ゼロまでやりたいことを諦めきれずに探し続けているわけです。まあたとえそういうことを見つけたとしても、なんでも全力でやってこれなかった人間が、それに全精力を傾けるなんてことはとても難しいでしょうね。ちょっと悲しいですが、それが普通の人ってものなのかなあと思います。

 

「ずっと靴のことが頭から離れないとか、いつも靴のためを思って行動するとか」

「そういう人になりたいんだね、麻子は。わかったよ。でも念のために言うと、それは変だよ」(スコーレNo.4)

 

くすぶる情熱をもてあまして人生は続く。歳を取ったとき、そんなものないから生きていけたと言える日が来るんだろうか。それとも、そのときも身命を賭して何かを成し遂げたいと思っているだろうか。もしくは全精力を何かに傾ける人になっているだろうか。先のことはわからないけれど、それまでは「毎日楽しい」人生を、それなりに真剣に生きていけたらいいなと思う。