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僕は忘れない、あの日のことを

140字では伝えられない。

我々が信仰するもの

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人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです

 

というわけでスコセッシの『沈黙-サイレンス-』を見ました。ちょうど長崎にも行きましたからね。といっても平戸も五島も行ってないしトモギ村の元になった外海地区も池島にしか行ってないのですが。そんなわけで舞台になった場所はだいたい通ってしかいないのですけど、ものすごく海が綺麗な場所でしたね。遠藤周作文学館も外海地区にあるようですが、時間の都合上いけませんでした。いつか行ってみたいところです(その前にまず原作を読め)

 

はい、原作未読(あらすじはwikipediaで知りました)です……

 

江戸時代、日本では苛烈なキリシタン禁教政策が敷かれていた。そんな中でヨーロッパに日本で布教を行っていた神父フェレイラが棄教したという知らせが入り、フェレイラの弟子であったロドリゴとガルペは師の探索と日本への布教という使命を帯びて、危険を冒して日本へ密航を図る。日本へ上陸した二人の神父の信仰心は、激烈な弾圧の前にどう変化していくのかーー

 

そんな感じです。

作中で再三にわたって言われるのが、踏み絵は形式だけのことだからということです。悪人ならぬ日本のお役人たちは、当然の倫理観として殺さないで済むなら殺さないほうが良いし踏んでしまえという。でも多くの信徒にとってはそうではないために結果として殺されてしまう。

 

ロドリゴは最終的に踏み絵を踏み棄教することになるのだけど、その本心は分からない。フェレイラも終盤信仰を捨てきっているわけではないことが示唆されている。筑後守はロドリゴに対して、お前は私に負けたのではなく日本という沼地に負けたのだと言っているのだけど、このことを鑑みると勝ち負けが逆転しているように思える。つまり、布教という使命は教義を変容させていく日本では確かに上手くいかなかったのだけど、信仰心まで奪うことは出来なかった。形式だけだから、というのは心を操作できないことをはっきり明示している。司祭という根を刈り取ったからもう良いと筑後守は話すが、その後この地ではキリスト教の信仰を取り戻したことを我々は知っている。(カクレキリシタンという別の宗教も確かにあるのだけど)

 

多分主題は、無知を啓くみたいな感覚だったロドリゴが、弱者と共にあり共に苦しむという真の信仰を手にするということなのだろうけど、僕は形を廃して真の信仰にたどり着く、というように見えるなあという感じにも思えた。

 

しかし舞台になった1640年からでも200年以上の時のあいだ、長崎で信仰を保ち続けたのだなと思うと、やっぱり圧倒されてしまいますね。僕が訪れた浦上天主堂は江戸から明治初期の弾圧や原爆の被害を受けてなお、あの場所に建てられたのだと思うと胸を打つものがありますね。

 

これはもう感想というより完全に自分語りなんですけど、個人的に一番心に残ったのは、拷問が繰り返される一方で神の奇跡と勝利は訪れず、神が沈黙を貫くことでロドリゴの信仰心は揺らいでいく。その中で、「自分が信仰しているのは無ではない」と必死に言い聞かせるところです。

 

僕は信仰があるかないかと聞かれればあると思っていて、たとえば御守りは徒に踏まないし作中みたいに祭具に唾を吐くとかも罰当たりだからそうそうしたくない(罰当たりというのも信仰がないと生まれない発想だ)ですけど、じゃあ宗教があるのかと訊かれるとありません。多分本当は仏教徒のはずなんでしょうけど、菩提寺も知らないし浄土真宗か浄土宗か日蓮宗かも怪しい人を普通は仏教徒とは呼ばないでしょう。もちろん神道でもないしその他の宗教徒でもありません。初詣に神社行くけど。

 

要するに信仰はあって宗教はないわけです。僕は多くの日本人がそうじゃないかなと思っています。それで僕はたまに、自分が信仰しているのは一体なんであるのかということを考えるのですけど、そうなると無であるとしか言いようがありませんよね。漠然と何かを畏れているというのが正しい。

 

だから、神を信仰していたはずのロドリゴが陥った感覚というのはそういうのにちょっと近いのかなあと思ったわけです。それでも彼は無ではないものへの信仰の火を灯し続けるのだけど。

そういえばクリストヴァン・フェレイラとか西洋人の格好が完全にジェダイでしたよね。クワイ=ガン・ジンだからね、仕方ないね。あと僕はガルペ役のアダム・ドライバー演じるカイロ・レンくんを熱烈に応援しています(完全な蛇足)

 

 きっと読むから許して……

沈黙 (新潮文庫)

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