僕は忘れない、あの日のことを

140字では伝えられない。

世界中の迷宮Ⅴを遊び倒していました。

とりあえず表ダンジョンクリアまで行きました。シリーズ恒例裏ダンジョンがそっくりそのまま残ってますが、とりあえずここまでの感想を書きます。

出来はー、まあ70点くらいですかね?

前半90点後半60点くらい。作成ちょっと息切れした感がありますね。

まあ及第点です。(無意味に上から目線)楽しく遊ばせていただきました。

 

 

 世界中の迷宮シリーズ、知らない人に簡単に説明すると、10くらいある職業を自由に組み合わせてPTを自分で作って敵を薙ぎ倒しつつ、一階層5階建て、六つの階層がある計30F建てダンジョン(※作品によって違う)を踏破するだけのRPGです。シリーズ全体としてストーリーは薄味で、戦闘が中心です。まあ全部キャラメイクする関係上、主人公といえる立場の人間はいませんからね。

 システムとしては、ダンジョンの地図を自分で書くというシステム、基本ランダムエンカウントの中、シンボルエンカウントの非常に強力な敵がダンジョンを徘徊しているのが特徴といえば特徴でしょうか。

 作品の根幹をなすのはやはり戦闘で、やや歯ごたえのある難易度と、非常に強力な状態異常が特徴。特に毒はスリップダメージではなく、毒ごとに固定ダメージなので一ターンに六割くらいHPが飛んだりします。これは敵も同様で、味方の使った毒で敵がばたばた死にます。曰く「だって毒だよ、普通死ぬでしょ」とのことです。

 

 

 さて世界樹Ⅴですが、ストーリー、戦闘・職業バランス、UI、システム、その他諸々の五項目くらいで書きます。やや辛口な気がしますが、みんなは僕が発売一週間で50時間以上遊んでいるという現実を見て。つまらなかったらやめてますからね。

 

1.ストーリー 50点くらい

 個人的にはゲームって遊べる部分(つまりここでは戦闘)が面白いかどうかが全てなので、ほとんど気にしたことがありませんが、シリーズでも随一の薄さだった気がしますね。ただ、会話とかを聞くに、どんどんプレイヤーの後に続ける冒険者がいなくなって、最終的に孤独にダンジョンを踏破していく英雄扱いみたいになっていったのはどうなんでしょう。戦闘でばたばた人が死んで、不意打ち先制を食らえば一発でゲームオーバーになるような修羅の難易度設計は、プレイヤーもあくまでその辺にいる冒険者の一団に過ぎず、ヒーローではないということを強調するためにあると思っていたのですが。僕の嗜好をお分かりの方ならお察しと思いますが、これこそが僕が世界樹の迷宮が好きな理由ですね。プレイヤーはあくまでたくさんの中の一団、すぐ死ぬ普通の人であって欲しいわけです。

 

2.バランス 75点くらい

 さてゲームの根幹部分ですが、戦闘は階によって急に難しくなりましたね。具体的に言うと四層だけ異常に難しくて、五層にいくとそうでもないという感じ。ボスは四層と五層だけ異常なほど強くて、特に四層ボスは三時間くらい詰まりました。三層までは難易度がゆっくり上がってて良調整だなと思ったのですが。もっとも、前作の新・世界樹の迷宮Ⅱで言われたように、ボスのパターンがワンパターンとかそういうことはなくって、かなり楽しめましたね。まー酷いようですが、シリーズ全体でも戦闘バランスがおかしくなかったことはほとんどないしこれくらいは許容の範囲内では。

 職業バランスも毎回バランスぶっ壊し職業がいるので、それは良心に任せるとすれば、全く使えない職業の方がいなければ問題ないでしょう。使ってる感じは、そういうのはあんまりなかったと思います。世界樹は自由にスキルポイントを振って、使うスキルを選ぶことが出来るのですが、これはちょっと不満というか、問題があったと思いますね。前提スキルがたくさん必要で、これまで可能だっためちゃくちゃピーキーな性能みたいなのがかなり作りにくくなっているというところがありました。

(バランスの話、これはやらないと分からないですが、ゾンビパウダーでHP9999のゾンビを作って等価交換するだけで10000ダメージが出せるのは気が狂っているという話です)

 

3.UI 65点くらい

 これ作り直したのですが、あんまり評判は良くないと思います。多分。ちょっと全体的にスタイリッシュに作りすぎてわかりにくくなっているし、全体的には上から下に進むのに、メニュー画面だけは左から右に進むのがどうなんだって感じです。

 作品の一番の特徴である地図書き回りも色々改変されましたが、こっちはまあまあですね。アイコンがたくさん増えて楽しい地図が作れますが、ダンジョン内ギミックに合ったアイコンを用意しているので微妙にネタバレ感ありますね。

 

4.システム

 今回追加された迷宮攻略中に食事が出来るという奴がめっちゃくちゃな問題児でしたね。何がダメって前作では食事そのものにはかなり力を入れていたのに、今作はちょー手抜きというか、三層以降新しい食材は出ないし、その一方でどこいっても小麦とりんごがあるんですよ。異常でしょ。四層以降新しいものを作れなかったのか。しかも最終的にパンケーキとヨーグルトしか食ってないみたいなね、あれになるんですよ。

 一方でめっちゃくちゃ楽しいのがキャラメイクです。これまでは用意されていた絵の中から選択するだけだったんですが、髪や目や肌の色を自由に変えられるようになって、ついでに声までつけられるようになったんですよね。これがもうめっちゃ楽しくって、これだけで一時間以上遊んでいると思います。これだけのためにゲーム買う価値があります。言い過ぎか。

 

5.その他諸々

 シリーズでは結構敵を流用していた(それはそれで懐かしくて良い)のですが、今作は全部一新していて、すごい楽しかったですね。知らない敵だと相手がどんな攻撃をしてくるのか読めないですし。ダンジョンの方は「パターン絵」払拭のために色々頑張ってますが、ちょっとちらつく感じはありました。ただちらっと見た感じ、六層の綺麗さはシリーズでもトップクラスかもしれません。これは凄い。

 冒頭で息切れした感と書きましたが、これはさっきの食事システムと、ダンジョン内イベントのことですね。えっと、ダンジョン内で色々とイベントが発生するんですけど、21F~25Fとかはそのイベントがちょー適当になってくるんですよ。ないほうがマシ。なんかもう向こうにも納期あるから仕方ないねって感じ(悲しい)

 

 

総括:ちょっと息切れ感あるしバランスブレイクな面もあるし細かいところ気にしないというかすっげえ荒削りだけど、楽しく遊んだよ。(雑)

 

そんな感じです。

なにか思いついたら追記します。

 

世界樹の迷宮V 長き神話の果て

世界樹の迷宮V 長き神話の果て

 

 

 

以下映画『シン・ゴジラ』を見てから見ろ!!!!!!!

わかったか!?

個人的には大変満足しました。まあ大勢の人間がクソでかい質量に為す術なくばったばった薙ぎ倒される展開そのものが大好きですからね、僕は。

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『知恵は多いに越したことはない』

 

広告の通り、この映画は日本というか人間社会とゴジラが対置されています。進化する完全な一個体であるゴジラと、危機の中で成長する集団・社会という構図です。

 

一度目の上陸をした成長途上のゴジラに対して、日本も初動対応が遅れ、大きな被害を出してしまいます。もちろん会議によって一つ一つ物事に対応していく仕組みは社会をつつがなく回すために存在していて、その枠組みの中で全ての人々が全力を尽くしているのだけど、そういう全力をゴジラは凌駕していたわけです。

 

ゴジラが一度撤退したあと、対応するための仕組み・対応も考えるのだけど、進化を続けるゴジラはさらに巨大化して再上陸し、その対策を正面から粉砕していきます。ここでも人間の集団はゴジラを超えられないわけです。自衛隊の砲撃はまるで通用せず、米空軍の爆撃に対してさらに進化し、放射線流でそのことごとくを撃破します。その威容はまさに「完全な生物」です。霞を食べて生きる仙人と称された画期的な消費性能、空を飛べるようになるかもしれないといわれた無限の進化の可能性。日本どころか人類全ての危機になりかねない、そんな不死身に等しい化物です。

 

そう好き勝手暴れる化物に対して最も進んだ対応策を考案できたのは、人間社会で比較的「好き勝手」できた巨大不明生物災害特設対策本部、巨災対です。好きにする、というのは本作の一つのキーワードになっていて、それは圧力や権力に屈せず全力を尽くすという形になって現れます。不眠不休の努力、狡猾な外交術。

 

もっとも、やっぱり社会は統制を持って動かなければいけないわけで、巨災対の面々がいくらゴジラ対策を考案しても、首相が首を振らなければ自衛隊は何一つ動かせないし、原子爆弾も落とされます。でも首相の好きにする、が原爆を落とされないことだったように、人々の「好きにする」が「ゴジラを倒す」「原爆は落とさない」の二つに結実したとき、有効で被害の少ないゴジラ対策が現実のものになるのです。

 

ヤシオリ作戦はこれまで人間の対応を凌駕してきた完全な一個体だったゴジラが、ゴジラに及ばない生命である人間集団の知恵と協力に上回られる瞬間なわけです。王道です。しかし、ゴジラは消え去ったわけではありません。いや消し去ることは出来ませんでした。

 

エピローグでは、上手くいかなかった対応を鑑みて、機能する集団として国政を立て直すこと、それを志すことが語られます。また、作品の途中で幾度も言われていたように、ゴジラは新しいエネルギー・人間の科学技術の進歩、そういうものに対して大きな可能性を秘めています。それを可能に出来るかもこれからにかかっています。

 

集団が再び烏合になって機能を喪失したとき、社会が凍りついたとき、それはゴジラの凍結が解けるときなのでしょう。最後に映される固まった、しかし今にも動き出しそうなゴジラが見ているのは、未来の人間社会なのです。

 

というところでどうでしょう。

そういえば一度目のゴジラ被害の図は明らかに2011の被害を意識した構図でしたね。

とにかくゴジラが歩くだけで東京の建造物がばったばったとなぎ倒されていくのが良かったですね。ゴジラの方はただ歩いてるだけなんですよ。それで人類は為す術がない。こういうの本当に好きですね。放射線流も背びれからびかーってやる奴とか最後の尻尾の方にエネルギーががーっていってでだーって撃つの最高でしたし。(語彙力)

あとはそうですねー、なんとなく被害を省みない爆撃立案、海からの襲来ということで有川浩の『海の底』を思い出しました。まあもうほとんど忘れているんですが。そういう話じゃなかったですっけ。撃つに撃てないみたいな展開もあったような気がします。


おまけ

矢口「まるで進化だ……」

ぼく(近いのはむしろ変態では? この用法はポケモン的「進化」、もしやポケモンGOにのっかっているのか……?)


何者にもなれない僕たちの情熱の行き場

前回、何かと戦いたい人って世の中わりといる気がします。と書いたけれど、世の中こういう人もいるよね構文を使っているときの僕は実のところだいたい自分語りをしていて、つまりこれも僕のことといえるわけです。もう少し具体的に言うと、情熱を燃やせるものが欲しい。

 

と書くと今いる立ち位置で全力を尽くせよと言われるだろうなあという気がします。でも、でもですよ、本当に結構多くの人が私と似たような感覚を持っている気がするのですよ。二つ創作から引用してみましょうか。

 

あたしは海より深く人を好きになったことなんてこの年までないけどね。ないから生きていけるのよ。毎日楽しく。(海よりもまだ深く)

 

中途半端だということにずっと引け目を感じていた。私には何もないと思ってきた。何もかも中途半端で、靴を愛したいとか誰かを愛したいとか強く望んでいながら愛し切れないでいた。愛せるものが欲しくて焦った。(スコーレNo.4)

 

 愛という言葉を使っているけど、どうでしょう。情熱、もっと言えば心血を注げるものを欲しいと思っている人はいて、だからこそこういう言葉が作品に出てくるわけでしょう。二つともそんなものそうないよという文脈ですけど、そんなものはないんだよという意味で出てくるというのは、まあ世の中のほぼ全ての人は特別な何者かにはなれないからなんでしょうかね。それに、それほど強く情熱を持てる人自体も実はそんなにいないのでしょうし。

 

でも人生はそれでも続いていて、そういう思いを抱いている人々の情熱は行く場所を失っていると思うのです。その情熱が何者かになれた人の情熱より実際は全然熱量が乏しいとしても、です。

 

僕は求道者として生きる棋士の中に中途半端な自分を見ていますし、甲子園なんかが好まれるのも、そこら辺に理由があるのかなという気がします。向こう側には何かに全力になれなかった自分像があるのです。

 

そして僕は今もエネルギー・ゼロまでやりたいことを諦めきれずに探し続けているわけです。まあたとえそういうことを見つけたとしても、なんでも全力でやってこれなかった人間が、それに全精力を傾けるなんてことはとても難しいでしょうね。ちょっと悲しいですが、それが普通の人ってものなのかなあと思います。

 

「ずっと靴のことが頭から離れないとか、いつも靴のためを思って行動するとか」

「そういう人になりたいんだね、麻子は。わかったよ。でも念のために言うと、それは変だよ」(スコーレNo.4)

 

くすぶる情熱をもてあまして人生は続く。歳を取ったとき、そんなものないから生きていけたと言える日が来るんだろうか。それとも、そのときも身命を賭して何かを成し遂げたいと思っているだろうか。もしくは全精力を何かに傾ける人になっているだろうか。先のことはわからないけれど、それまでは「毎日楽しい」人生を、それなりに真剣に生きていけたらいいなと思う。

戦うために生まれてきた

伊高浩昭『チェ・ゲバラ 旅、キューバ革命ボリビア』を読みました。

革命家チェ・ゲバラの一生を追う一冊。モーターサイクル・ダイアリーズを見た影響ですね。

 だがいつも私の心には〈祖国か死か、勝利するのだ〉の標語がある

アルゼンチンで生まれたエルネスト・ゲバラは複数回の南米旅行(その中の最大の物がアルベルト・グラナードとの南米縦断旅行『モーターサイクル・ダイアリーズ』だ)を経て、ラテンアメリカ全体での革命、反米闘争を志すようになる。その後フィデル・カストロと出会い、キューバ革命に貢献。革命政権でも要職を担うが、若き日のラテンアメリカの革命推進の夢を捨てず、コンゴ・そしてボリビアの革命運動へ赴く。

 

読んだ印象としては、ゲバラは「戦うために生まれてきた」というのがぴったりで、戦いたいという意志がまず強くあって、そこに戦うための適正として強靭な意志力や忍耐力、強い運を持っていたのだなあと感じましたね。何と戦うのか、ということは南米旅行を通して後から見つけたものという感じ。生まれた場所や環境が異なれば、違う場所でやっぱり戦っていたんだろうなあと思います。趣味だったチェスが職業になっていたかもしれない。

 

ただ、キューバが安定していくとそういう反骨精神(例えば反米はともかく、反ソでもあったのはキューバの情勢から鑑みて得策ではなかった)は多くの人間、盟友だったフィデル・カストロにすら疎まれていき、孤独の中ますます戦いに傾倒していったわけです。著者はボリビアの革命運動は準備不足や逆境が重なりゲバラが出立する前に失敗が確定していたようなもので、ゲバラ自身も覚悟して死地に赴いたのではないかと記しています。

著者の評価は

チェは、人の命を救う医師の資格を得ながらも人を殺す武器を手にし、キューバで武力革命に成功すると自信過剰気味となって、平時よりも戦時に魅惑され、死を覚悟しつつ絶えず戦場を求め、最後には敵の武器によって命を絶たれてしまう。

ととても厳しい。戦場にロマンを求めていたのではないか、というわけです。

 

キューバ革命後の革命政権のごたごた、失政、そういったものに多くの紙面を割いたのは、暴力によって成し遂げられることの少なさというのを暗に示しているような気がしましたね。ゲバラの栄光と挫折は、そのまま暴力による古い枠組みの破壊という可能性と、創造の不可能性に繋がっているのではないか、という風に読みました。

 

 

全体として凄い記述が詳しくてそれは面白いんですけど、~~が~~したみたいな記述が延々と続くので読み物としてどうなんだよという風に何回か思いました。心が宮崎市定を求めることになった(?) いや僕が本読むの下手なだけなんですかね……?

 

どうでもいい余談ですけど、何かと戦いたい人って世の中わりといる気がします。戦う対象を見つけられないとインターネットを彷徨するTwitterレスバトル勢になったりしする(失礼)

死によって永遠に戦い続けることになった革命家には、信仰や戦う対象を見つけられない人々の憧憬が向けられているような気がするのですよ。

 

チェ・ゲバラ - 旅、キューバ革命、ボリビア (中公新書)

チェ・ゲバラ - 旅、キューバ革命、ボリビア (中公新書)

 

 

本著のゲバラは気難しくて激しいみたいなところがありましたけど、旅行記はひたすら楽天的で明るかったですね。楽しい。

モーターサイクル・ダイアリーズ (角川文庫)

モーターサイクル・ダイアリーズ (角川文庫)

 

 

 

 

 

 

将棋を指すという趣味

こんなペースで記事を書いていたら来週には書くことがなくなってしまう。

でもまあ今回は前回の続きみたいなところがあるので。

 

といっても、将棋を指す楽しさみたいなものを適切な言葉で伝えられる気がしないので、私の将棋遍歴について話します。

 

 

将棋というゲームを知ったのは、たぶん小学二年生くらいの頃だと思う。たぶん父親に教わった。といっても、最初からめっちゃ面白いと思っていたわけではなくって、どちらかといえば回り将棋とか挟み将棋とかそういう将棋盤を使った遊びの方が好きだったように思う。

 

将棋をぼちぼち指し始めたのは小学四年生くらい。父親はそこそこ指せたので、まあ勝てないわけです。でも恐ろしいほどの負けず嫌いだったから、敗勢になるとぴたっと指すのをやめてしまっていた。地蔵流。父親が諦めるまで動かなかった。

 

五年生は多分人生の中で一番将棋を指していたころ。同じくらいの棋力の同級生の友人がいたからだ。あと、小学校に良くある(よくあるよね?)クラブ活動みたいなので僕よりちょっと強い先輩が見つかったのもある。当時の実力はたぶん一番強いときでアマチュア初段くらい。おそらく今とほとんど変わらない。

 

 JTが主催する将棋大会が毎年あるのだけど、それに出たのも五年生のとき。身の回りに強い人がたくさんいたので、子供全体の中の自分の実力をかなり低く見ていたっぽく、なんというか記念みたいなものだった。ところがあれよあれよと決勝トーナメント出場が決まり本当にびっくりした。先の自分より強い六年生と決勝トーナメント一回戦で当たったのも良い思い出だ。そこからはあんまり覚えてないけれど、次の相手が確か扇子で扇いでいて、強そうでいけ好かない奴だから殺すと思ったのだけは覚えている。そいつは決意どおり盤上で殺した。

 

で、なんかベスト4まで進んでしまったのだけど、これは緊張した。なんか指す場所変わって。しかも決勝に出ると羽織着てプロが解説して記録までつくの。ひえー。無理。なお準決勝の結果は角による王手を見逃して王様取られて負けだった。初心者か。(ちなみに今もたまにやる。死)まあ王様取られなくても形勢自体必敗だった。予選で件の僕の友人を破っているので、実力違いだったんだろう。

 

そんな感じで将棋を楽しんでいたのだけど、親の都合で五年の冬に引っ越してからはあまり指さなくなった。というのも、近くに棋力の近い同世代の子がいなくなったからだ。対等に戦える相手は大人だけになっていた。そうなると続かなかった。

 

 

将棋をまた始めたのはここ一年半くらい。将棋観戦はまあまあやっていて、今と変わらずやかましく観戦tweetを連投していたところ、相互フォロワーから誘われてまたはじめることになった。始めた当初の実力はアマチュア10級以下だったんじゃないかなあと踏んでいる。その頃の棋譜見ると酷い手指してて笑うもんね。数年後今の将棋観たらやっぱり同じように笑うのかもしれないけど。そこまで強くなっていたいね。

 

この一年半は将棋熱があるときもあれば、全くないときもあるのだけど、それは大体そういう風に出来た知り合いと指す機会の増減と関係しているように思う。インターネット上にはいくらでも相手がいるのだけど、それは子供の頃の「大人」とあんまり変わらないんだろう。

 

 

ここまで書くと僕は将棋をコミュニケーションツールとして捉えていることが分かる。「友人とゲームをするのが楽しい」の中に将棋が分類されているのだ。将棋には感想戦といって、勝負の後にこれならどうだった、あれならどうだった、ここは自信があったなかったと言い合う文化がある。それに、将棋の指し手自体にも性格は反映されるように思う。優れたコミュニケーションの道具なのだ。

 

もちろん将棋自体も面白いから続けているのであって、その面白さは私にとっては勝負の終わりにある。将棋は逆転のゲーム、とは前回も言ったけれど、それは自分が指すときもそうで、だから終盤は緊張するし、手に汗握る。そしてたくさんの「分からない」を残して勝負が終わったあと、それが感想戦で一つ一つ氷解する。「分からない」とその「なるほど」の繰り返しが好きなのかなあという感じがする。もちろん、こうしていれば勝ちだった、と分かるのは悔しいけれど。

 

 

そんなわけで、是非将棋を指しましょうと声をかけて欲しい。

それから将棋、是非皆さんもはじめましょう。教えられる範囲で、教えます。

一部では僕をサドと呼ぶ向きもありますが、そんなことはないので平気です。

将棋を観るという趣味

渡辺明『頭脳勝負――将棋の世界』を読みました。もう10年近く前の本なんですねえ。

 

棋士は将棋を指すことによってお金をもらっていますが、これはプロが指す将棋の価値を認めてくれるファンの方がいるからです。スポーツ等と同じで、見てくれる人がいなければ成り立ちません。(中略)

確かに、将棋は難しいゲームです。しかし、それを楽しむのはちっとも難しくないのです。「なんとなく難しそう」というイメージで我々のプレーがあまり見られていないとしたら、残念なこと。というわけで、将棋の魅力を多くの人に伝えたい、と思って本書を書くことにしました。

将棋界の第一人者である渡辺明が、将棋初心者向けに将棋観戦の面白さについて、できるだけ平易な言葉で語ろうとした本。対象者としてはルールがわかる、くらいかなあと思う。スポーツとかでも、ルールを全く知らないが見ている層(将棋界でもこういう人たちがわりと増えたようになったと思う)というのは存在するけれど、そういう人にはちょっと難しい内容もありそう。

 

10年近く前の本なだけあって、将棋界を取り巻く状況は本の内容からかなり変わっている。コンピュータソフトはトッププロに少なくとも匹敵・或いは凌駕するような存在になったし、女流棋士は凄く強くなった。奨励会三段(四段からプロ)にも女性棋士は二人在籍していて、女性のプロ棋士誕生まであと少しというところまで来ている。

 

そういう様々な今はこうであるということは抜きにして、将棋の楽しみ方はやっぱり普遍で、この本の内容も昔も今も、そして未来も変わらないのだろうなあと思う。

 

 

 将棋というゲームは「ミスを多くしたほうではなく、最後にミスをした方が負けるゲームである」というところがあって、途轍もなく逆転が多いゲームだ。加えて、棋士たちは技術的にはとても狭い範囲で争っていて、精神面が勝負の行方を大きく左右する。だから対局者の間には多くの駆け引きが生まれる。技術的なこともあるし、「こうされたら負け」と思いながらそうと悟られないように自信ありげに指す、みたいな話もある。

 

そういう一対一の競技らしい駆け引きの妙。分からない中指し手を進める対局者の苦しそうな感じとか、最後の最後に逆転を許して投了までになんとか気持ちを整えようとする感じ。指し手の内容が解説付きなら理解できるようになってくると、少しずつプロの技術力の高さや、踏み込む勇気、諦めない精神力、そういうところが分かってまた面白くなる。

 

そんな将棋の面白さを詰め込んだ本。四章では自身の実際の対局を、そのときはどんなことを考えながら指していたかを書いている。三章まで読まれた方なら、きっと将棋の面白さが伝わるのではないかな、と思った。

 

最後は引用で。娯楽としての将棋観戦はもっともっと広まって欲しいですね。

 例えばプロ野球を見る時。「今のは振っちゃダメなんだよ!」とか「それくらい捕れよ!」。サッカーを見る時。「そこじゃないよ! 今、右サイドが空いていたじゃんか!」「それくらいしっかり決めろよ!」。自分ではできないのはわかっていてもこのようなことを言いながら見ますよね。それと同じことを将棋でもやってもらいたいのです。
「それくらい捕れよ!」と言いはしますが、実際に自分がやれと言われたら絶対にできません。「しっかり決めろよ!」も同じで自分では決められません。将棋もそんなふうに無責任で楽しんでほしい。

頭脳勝負―将棋の世界 (ちくま新書)

頭脳勝負―将棋の世界 (ちくま新書)

 

渡辺二冠は文章も上手で、将棋の解説も非常に明晰な聡明な人ですが、私生活では変な人。ぬいぐるみ好きで、嫁にもう増やすなと言われているほど大量に持っていて、しかもそれぞれ名前も血縁関係も誕生日も設定されているんだとか。ちなみに三十代男性。

 

読み終わった後にお勧めの動画です。将棋の面白さをライトに楽しめるはず。将棋の中身は難しいですけど、わからなくてもきっと面白い。

ちなみに作中のアイドル間のライバル・友人・その他人間関係みたいなものも、狭いプロ棋士界ではよくあることです。そういう話もおいおいしたい。

中断された/でも死んでいない

 

「水は冷たい、薬は苦い、銃は違法、縄は切れる、ガスは臭い。 生きてる方がマシ」

 

そういうわけで『17歳のカルテ』を見たので感想を書こうとしたのですが、どう書けばいいのかなあと思ったまま視聴から丸1日が経過してしまったのでどうしようかなって……。面白かったですけどね。台詞とか相当忘れてるけど頑張ってさらっと感想書きます。じゃあネタバレするから。

 

 

全体として言えば主人公のスザンナ、そしてリサが異常にかわいいということに尽きますね。スザンナのベリーショートにハート打ち抜かれるしリサの不敵な視線は良さの塊ですし。リサにめっちゃ罵られたいですよね。見たら分かる。わかって。

 

17歳のカルテは精神病棟の物語ですから、一見すると暗いシリアスな話が続くようですが、物語の核となる部分はともかく、それをとりまく女の子たちはみんな生き生きとしていて、魅力的なんですよ。だから作品全体も一貫して暗いというわけではありません。ただその明るさは一方では躁みたいで、どこか痛々しい。そういう意味で、八年間も入院していて、病棟で女王のように振舞うリサはそういう意味で作品を象徴する存在として描かれる女の子です。とても明るく、一見すると病気であることを誇りにしているようだけど、実はずっと救いを求めている。

 

 徴兵された人々を「死んだ」と過去形で形容するように、彼女たちは病院を人生の行き止まりとして捉えていて、たとえばリサのディズニーランドでシンデレラになるみたいな言葉のはそういうところから来ています。つまり、自分ではもうどうにもならないから、外部から誰かに救われたいという気持ち。同じように、世界を変えようとしているキング牧師に妙に同情的になっていたりします。

 

スザンナが気づいたことは結局、病気を治すのは自分次第であるってことなんでしょうね。(でも看護婦長が言ったあなたは自分を壊したがってるだけのまともな人ってのは流石に辛辣すぎない?)

 

物語最終盤にスザンナがリサに言った「貴女はもう死んでいるから誰も貴女の背を押そうとしない」というのは死んでいる=行き止まりだと思って何もかも諦めているってことで、リサが私は死んでいないよって返しは病であることを誇っていたリサが、その病と向き合う宣言になっているわけです。

 

人生足踏み状態だけど、それはあくまで中断であって死んでるわけじゃない。

Girl,interruptedという原題に託したテーマはそんなところでしょうか。

 

 

『思春期病棟の少女たち』であったエピソードが微妙に形を変えてきちんと出すのが良かったですね。原作の女の子たちの愛らしさが映像で!みたいな。アイスクリーム屋のナッツいりますか、にnuts(きちがい)だってと一同爆笑する話とか、看護婦のチェックの間にファックできるかって話すエピソードとか。(スザンナは15分チェックで行為が見つかったことがあるそうだ)

 

原作は特別ストーリーがあるというわけではなくって、なんとなく入院してなんとなく退院した感(映画でも治ったって意味が分からないと言っているし、実際そんなものかもしれない)がばしばし伝わってきます。あとリサは文章の感じより映画の方がずっと凶悪な印象でした。最初に言ったけどああいう感じ好きなんですけどね。ちなみに退院後のリサは(ここからは読むとわかる)