僕は忘れない、あの日のことを

140字では伝えられない。

ゼロ災へ(熊本-天草旅行:一日目~二日目朝)

というわけで、三連休は熊本にいました。交通の便にかなり問題があるということでレンタカーを借りたのですが、ぼくも同行者も完全にペーパードライバーでかなりヤバい感じでした。過去一番危険な旅行だったのでは。無事で終わって本当に良かった。ちなみに今日も一日ゼロ災で行こう・サーキットに行け(後述)などの文言が飛び交う車内でした。

 

日程は初日の昼~二日目の朝まで熊本で、そこから天草に移動して三日目に熊本に戻ってきて終了という感じ。熊本は市内ではなく阿蘇の方へ行っていました。ということで感想書いていきます。

 

昼について危険が危ない感じ(最初の方は本当に危険だった)の運転で阿蘇方面へ。国道57号線というのが市内から阿蘇へ向かう大きな道路なのですが、一年前の地震の影響で阿蘇へ向かう途中で封鎖されているので、途中で迂回する必要がありました。その他も阿蘇へ至る道路は大半が封鎖されていて、未だ事実上一箇所に集約されている感じではないでしょうか。春くらいまではどこも封鎖されていたみたいですし、近くを通る豊肥本線という電車は肥後大津から阿蘇間で現在も運転見合わせ中です。

 

とはいえ迂回して通るミルクロードという道はそれ自体が観光地みたいな道で、うおー綺麗綺麗と言いながら車を走らせていました。他にWindowsで見たなどの発言もありました。写真では分かりませんがが、何が凄いって見渡す限り360度こんな景色なんですよ。壮大な原野なんですね。美しい。ただし帰るときは似たような場所と道路が続くので逆に迷いかけました。持ってて良かったGoogleMap。

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それから北山を経て大観峰という山へ。外輪山を尾根伝いにぐるっと大回りする感じでしょうか。大観峰阿蘇の北の外輪山では一番大きな山です。

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画面右がカルデラ内にある阿蘇五岳……でしょうか。うち三つ見えて中央がたぶん噴火口がある山です。(適当)そういえば周囲にぐるりと山があって、平地が続いた後おおきな火山があるというのなんとなくロード・オブ・ザリングっぽいな(伝われ)

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外壁は概ね断崖になってて結構怖い。

大観峰大観峰って石碑があったり立て札があったりしたんだけど、撮ってないのでどこからが大観峰の写真かが思い出せない(酷い)

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これは間違いなく大観峰でとりました。画面の中央辺り、この稜線上に二人組がいるんですけど、わかりますかね。よく見たらいます。凄い大きさなんですよ。

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これも大観峰の写真です。中央に二人組がいますね。

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というわけです。

実は本当の目的地は草千里という場所だったのですが、大きな迂回が必要だった上に山に入る辺りで相当な渋滞をしていて、時間的に限界だったのでここで撤退。そもそも同行者もぼくももうここがゴールでいいんじゃないかな的な満足をしていました。でも道路が全て通るようになったらまた行きたいところです。

 

下山する際に、「じいちゃん飛び出し注意」「急いでも五分も変わらない」などといったスピード規制の標語看板がぼこぼこと現れ、その中の一つが「サーキットに行け」でした。(写真は撮れなかった)

「サーキットに行け」は余りの語感の良さに同行者と大爆笑し、これで事故ったらどうするとか言ってました。市街地ではなく山道やリアス式海岸の海岸沿いなどカーブの多い道を運転していたこともあり、その後の三日間にわたりスピード過多の車を発見するたびにこの標語が口に出ることになりました。皆さんも使うと良いですよ、サーキットに行け。

 

その後熊本市内に戻る前に地震で大きな被害を受けたという益城町へ行きました。あまり観光気分で行くようなものではないと思うのですが……

普通の民家なのであまり大っぴらにするものではないのかなと思うのですが、未だ傾いでいる家や、崩れた家などそこかしこに見られました。ぼくたちは町の中心付近しか見ていないので、山間部はもっと酷いのかもしれません。もちろん新たに建築中の家もたくさん見ました。

 

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町役場からすぐのところにある木山神宮は特に地震の大きさを身をもって体感しました。本殿は倒壊したままで、周囲のものも倒れたり崩れたりしていました。

 

言い方は良くないと思いますが、見るべきものを見たと思っています。

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車を返し(当然のように当初の返却予定時間には間に合わなかった)ホテルへ。熊本ラーメンを食べて寝ました。慣れない運転で異常なほど疲れました。早く寝たわけじゃないですけどね。

 

朝起きて熊本城周辺をぐるっとまわりました。こちらも天守をはじめ多くの被害を受け、未だ大部分は入ることができません。

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(被害状況の写真ばかりアップロードするのは行儀が悪いと思うのですが)

ちょっと撮り忘れたのですが、城内公園にはところどころ石を並べておいているんですね。何なのかと思ったのですが、石垣を修復する際に、

1.石材の特徴を調べる

2.元の石材がどこにあったのか調べる

3.実際に積み直す

という、気の遠くなるような巨大ジグソーパズル的修復法をしているらしく、そのための仮置きだそうです。真摯な修復方法に感動してしまいました。

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今のところ、天守閣をもっとも近くに望めるのは、加藤清正を祭っている加藤神社の一角でしょうか。加藤神社は城内にあるので目の前の堀は内堀のはずなんですけど、堀の高低が大きくてびっくりしました。大きなお城だ。

 

といったところで二日目の朝まで終わり。天草までの移動からはまた今度。

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ちなみに権威主義体制下にありがちな壁面に描かれた最高指導者の絵も熊本城の目の前にあります。(同行者がtweetしたらわけわからんくらい伸びて爆笑していた)

 

感想なのですが、道中に阿蘇山ロードバイクで踏破するつわものを見てめっちゃくちゃスポーツ自転車買いたくなりました。つい最近沼沈めフォロワーが現れたこともあり。まあ登坂するのははっちゃめちゃに鍛えないと無理でしょうけど、あの景色の中自転車走らせるの最高っぽいなと思いました。まあ実際やったら早く下り坂になれと思いそうだけど。

その一瞬は永遠となるか

前回の記事を見ると2月26日付で如何に放置していたかが可視化されてしまっていた。ついでにブックマークからブログトップを開くと自動ログインが切れていて書く気すらなかったことが丸分かり状態だった。まあいいよね。定期的に更新するなんて言っていないし。

 

GW中特に遠出することもなくごろごろしていたら、あっという間に終わりを迎えつつあるわけですが、それはともかくGW期間中に映画を6本くらい借りてしまったので頑張って見ているわけです。多い。まだ3本くらいある。多い。

 

頑張って感想を書きます。そういえばラ・ラ・ランド見たのに感想書いてないな。まあ各所で絶賛されているのでそういう感想を参照にしてください。(投げやり)

 

 

ザ・ウォーク

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大道芸人フィリップ・プティが綱渡り師を志し、そしてワールドトレードセンターの二棟を綱渡りするに至るまでの物語。

 

怖い。

ぼく高所恐怖症なんですよ。腰浮かしましたもんね。いてもたってもいられない感じで一部立って見てました。映画館の迫力でこれを座ったまま見るの拷問じゃないですか。怖い。一方でその恐怖感が高さの美しさと繋がっているわけです。質悪い映像美だ。

 

作品全体の雰囲気は非常に明るいのだけど、準備(無許可で綱渡りをするのは違法です)でも綱渡りでもスリルを失わないのはフィリップの共犯者たちが「普通の人間」だからなんでしょう。捕まるのは怖い、高いところは怖い。(そういう人間たちに容赦なく任務を与えるさまにフィリップの人間性が出ている。特に地上400mで高所恐怖症の男に作業させる様は異常だ)

 

作品のテーマは一瞬と永遠。

フィリップが違法行為の綱渡りを行うのは永遠に名を残すためだったが、ワールドトレードセンターを綱渡りする中に永遠を感じる。綱渡りにおいて「敬意を表す」の意味が分からなかった彼がはじめて礼をするのは、綱渡りの外ではなく、その中に本質を見たからだ。

アイルトン・セナが時速300kmで神の世界を見たといったが、将棋にも思考の最中時速300kmの世界がある」

 とは羽生三冠の言だけど、フィリップが見たのも『時速300kmの世界』ではなかったか。極限の集中の中で不確かなはずの一歩は確固たる一歩となる。「ボールが止まって見えた」かのように、あらゆる状況に即座に対応できるよう一瞬の感覚が長くなっていく。

フィリップは長くその感覚を味わおうとするが、その一瞬は本当の意味で永遠ではない。レースには終わりがあり、将棋にもいつか終局が訪れる。綱渡りも同様だ。人はワイヤーの上で生きていくことは出来ないし、大きな負荷がかかっているワイヤーにも限界がある。ワイヤーから降りる中で、その永遠は元の一瞬へ戻っていく。

 

その芸術は一瞬で終わらず、フィリップの名を残すだけで終わるわけでもなく、ワールドトレードセンターへ永遠の命を吹き込んだ。フィリップに贈られたワールドトレードセンター展望台の期限が「永遠」であったように。 しかしその永遠が本当の意味で永遠足りえなかったことは、誰もが知っている。地上400mの恐ろしくも美しい光景もニューヨークの象徴であったその威容も、永遠の美であり、過去の一瞬の美でもあるのだ。

 

一瞬と永遠がテーマになることは見ればわかる(このテーマで書こうと思ったら先に本質をばしりと書かれていたのでぼくは泣いた。パクリじゃないからな)

amberfeb.hatenablog.com

 

 

王道――その挑戦的な揮毫

第75期A級順位戦は2月25日に全日程を終えた。竜王戦のごたごたがあって、A級順位戦も消化不良の一面があったことは否定できないが、8勝1敗のすばらしい成績を残した挑戦者には誰も異論を挟まないだろう。稲葉陽八段は昇級一期目にして挑戦権を掴んだ。

 

稲葉八段は名人佐藤天彦と同い年の関西の棋士だ。個人的には、やや受け将棋よりではないかなと思う。7月の王将戦一次予選では生粋の攻め将棋の畠山鎮八段に、忍者銀という守りが薄い代わりに攻撃的な戦法を使ったにも関わらず、最終的には受けまくって勝っていた。

 

佐藤名人も昇級一期目で8勝1敗の成績を残して挑戦権を獲得し、王者羽生善治を下して名人となった。今度は立場を変え、勢いに乗る挑戦者を迎え撃つことになる。ところで、名人は棋戦叡王戦も優勝し、名人戦が行われるのとちょうど同時期に、電王戦で将棋ソフトPonanzaと対局することになる。Ponanzaはとても攻撃的な棋風だ。そしてべらぼうに強い。名人はタイプの違う強敵と同時期に戦うことになった。苦戦は必至だろう。

 

佐藤名人はよく「王道」と揮毫する。ぼくは最初みたときとても挑戦的だなと思った。自分の指し手は王道である、少なくとも目指す先は本筋そのものであると意思表明するのは勇気がいることだ。たとえばぼくが自分の将棋を王道と称したら死ねあんぽんたんと言われておしまいだ。プロ棋士の中だって、自分の将棋は王道ですと言い切れる人はそんなに多くないと思う。将棋の宇宙の中で、自分の選ぶ指し手こそが王道であると言い切るのはとんでもなく挑戦的なはずなのだ。

 

王道。目指す目標として書いているのかもしれないが、佐藤名人の将棋は「これが王道か」と捉えられるようになっている。奇抜に走らず自然な指し手を積み重ねて自然に勝つ、王道の将棋。この揮毫はもう佐藤名人の棋風を表す言葉となった。その言葉が挑戦的と言う人はもういないだろう。

 

四月から名人戦・電王戦と、苦しい戦いが続く。それでもきっと、名人の将棋は王道から外れない。四月からの戦いを楽しみにしている。

感想文の難しさ/思い出したようにブログを更新する理由

なんでブログはじめたのといわれるとまあ140字以上書きたいことがあったからなんですが、かといってそれを書き終わったらそれで終了というのもちょっともったいないので少しは有効活用しようという話なんですね。

 

それで何を書こうかなあとなったとき、敬愛すべきブログ先輩こと宇宙、日本、練馬に倣って映画やら本やらの感想を書こうかなとなったわけですね。(更新頻度の高い良いブログです!)(ものすごい馴れ合い方だ)

 

といっても僕は読書感想文の類が死ぬほど苦手だったので毎回苦慮します。

自分が作品の本筋からかなり離れた感想を抱いていると思うことは結構あって、だけどそれを修正してしまうとそれお前が文章を書く必要あるのという話になってしまいます。このブログを見る以上、恥ずかしいことに見に来るのは僕の感想なわけですよ。他の誰かのものではなく。とすると、その作品のバックボーンや理屈から言って作品が伝えたかったことが何であるか下手に推察するより、お前がどう思ったのかの方が、今この場においては重要なことじゃないの、となるわけですね(もちろん作品の本質から離れないところで感想・意見を綴った文章は無数に存在していて、こういうのが"良い"感想文なのだろうなと思います)

 

でも、虚心にそれを書くのは結構な訓練が必要だと思うのですよ。

「ビジネスの世界の論理といのちの電話の世界って、全然違うことが分かったんです。研修では『自分の気持ちは何ですか?』という訓練をやるんだけど、最初は自分の気持ちを全然出せなかった。ビジネスの世界では、自分の気持ちは置いておいて『事実はどうなんだ?』ってやる。ここの研修はそうじゃない。『あなたはどう感じたの?』ってずっと聞かれます。それまでは自分の気持ちに蓋をして生きていたから、最初は苦しかった」

 引用元:なぜ、あなたの声を聴き続けるのか 「いのちの電話」相談員 - Yahoo!ニュース

 

国語教育の敗北というのは流石に言いすぎですけど、とても成績の良かった(謙虚な表現)僕にとっては現代文というのもなんて書いてあるのという話になっちゃうんですよね。センター試験とか全体的に最大公約数の回答を選ぶ感じですものね。でもそれはここで求められる能力ではありません。

 

僕はどう思ったのか。これを書くのも訓練が必要だし、そもそも自分がいつ・どういう感情を抱いたのか・なぜ抱いたのかと感性を研ぎ澄まさなければいけないですよね。

 

日常生活でこういうことをする経験はあまりないので、まあこの場を借りてやってみたいわけです。訓練しておけば人に本や映画を勧めるときにちょっと得をするかもしれませんし。と、まあ、そういうことを5%くらいは考えて、すんでのところで放置はやめようと思うわけです。後は文章の構成とか文章力とかちょっとだけでも向上したら良いなあと思いますね。どっちかというとこれは触れる文章(量)に拠るのではと思わなくもないですが。

 

ちなみに残りの80%は惰性です。前に映画見たときも更新ししたしなんとなくね。

残りは見栄。放置ブログって恥ずかしくない?

我々が信仰するもの

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人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです

 

というわけでスコセッシの『沈黙-サイレンス-』を見ました。ちょうど長崎にも行きましたからね。といっても平戸も五島も行ってないしトモギ村の元になった外海地区も池島にしか行ってないのですが。そんなわけで舞台になった場所はだいたい通ってしかいないのですけど、ものすごく海が綺麗な場所でしたね。遠藤周作文学館も外海地区にあるようですが、時間の都合上いけませんでした。いつか行ってみたいところです(その前にまず原作を読め)

 

はい、原作未読(あらすじはwikipediaで知りました)です……

 

江戸時代、日本では苛烈なキリシタン禁教政策が敷かれていた。そんな中でヨーロッパに日本で布教を行っていた神父フェレイラが棄教したという知らせが入り、フェレイラの弟子であったロドリゴとガルペは師の探索と日本への布教という使命を帯びて、危険を冒して日本へ密航を図る。日本へ上陸した二人の神父の信仰心は、激烈な弾圧の前にどう変化していくのかーー

 

そんな感じです。

作中で再三にわたって言われるのが、踏み絵は形式だけのことだからということです。悪人ならぬ日本のお役人たちは、当然の倫理観として殺さないで済むなら殺さないほうが良いし踏んでしまえという。でも多くの信徒にとってはそうではないために結果として殺されてしまう。

 

ロドリゴは最終的に踏み絵を踏み棄教することになるのだけど、その本心は分からない。フェレイラも終盤信仰を捨てきっているわけではないことが示唆されている。筑後守はロドリゴに対して、お前は私に負けたのではなく日本という沼地に負けたのだと言っているのだけど、このことを鑑みると勝ち負けが逆転しているように思える。つまり、布教という使命は教義を変容させていく日本では確かに上手くいかなかったのだけど、信仰心まで奪うことは出来なかった。形式だけだから、というのは心を操作できないことをはっきり明示している。司祭という根を刈り取ったからもう良いと筑後守は話すが、その後この地ではキリスト教の信仰を取り戻したことを我々は知っている。(カクレキリシタンという別の宗教も確かにあるのだけど)

 

多分主題は、無知を啓くみたいな感覚だったロドリゴが、弱者と共にあり共に苦しむという真の信仰を手にするということなのだろうけど、僕は形を廃して真の信仰にたどり着く、というように見えるなあという感じにも思えた。

 

しかし舞台になった1640年からでも200年以上の時のあいだ、長崎で信仰を保ち続けたのだなと思うと、やっぱり圧倒されてしまいますね。僕が訪れた浦上天主堂は江戸から明治初期の弾圧や原爆の被害を受けてなお、あの場所に建てられたのだと思うと胸を打つものがありますね。

 

これはもう感想というより完全に自分語りなんですけど、個人的に一番心に残ったのは、拷問が繰り返される一方で神の奇跡と勝利は訪れず、神が沈黙を貫くことでロドリゴの信仰心は揺らいでいく。その中で、「自分が信仰しているのは無ではない」と必死に言い聞かせるところです。

 

僕は信仰があるかないかと聞かれればあると思っていて、たとえば御守りは徒に踏まないし作中みたいに祭具に唾を吐くとかも罰当たりだからそうそうしたくない(罰当たりというのも信仰がないと生まれない発想だ)ですけど、じゃあ宗教があるのかと訊かれるとありません。多分本当は仏教徒のはずなんでしょうけど、菩提寺も知らないし浄土真宗か浄土宗か日蓮宗かも怪しい人を普通は仏教徒とは呼ばないでしょう。もちろん神道でもないしその他の宗教徒でもありません。初詣に神社行くけど。

 

要するに信仰はあって宗教はないわけです。僕は多くの日本人がそうじゃないかなと思っています。それで僕はたまに、自分が信仰しているのは一体なんであるのかということを考えるのですけど、そうなると無であるとしか言いようがありませんよね。漠然と何かを畏れているというのが正しい。

 

だから、神を信仰していたはずのロドリゴが陥った感覚というのはそういうのにちょっと近いのかなあと思ったわけです。それでも彼は無ではないものへの信仰の火を灯し続けるのだけど。

そういえばクリストヴァン・フェレイラとか西洋人の格好が完全にジェダイでしたよね。クワイ=ガン・ジンだからね、仕方ないね。あと僕はガルペ役のアダム・ドライバー演じるカイロ・レンくんを熱烈に応援しています(完全な蛇足)

 

 きっと読むから許して……

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

 

希望を見出すまでの物語

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というわけで?遅ればせながらローグ・ワンを見ました。

 

ローグ・ワンはスターウォーズスピンオフ作品の中でスターウォーズエピソード3と4の間に位置する話で、具体的にはエピソード4に登場するデス・スターの設計図を入手するまでを描いた映画。

 

作中の主要人物はみな「普通の人」で、特殊能力があるわけでもないし、フォースを明確に感じられるわけでもない(チアルートは完全に何か憑いてる能力だけど)。ローグ・ワンという言葉的に鶏鳴狗盗とかちょっと近いんだろうか。違うか。

 

さて、作中では希望を繋いでいって最後に勝利する、みたいな言葉があるのだけど、実際のところこれはその希望を見出し掴み取るまでの物語と感じた。当初銀河帝国に対抗する反乱軍は及び腰で、自分が生き延びるために味方も手にかけるような人々だし、反乱軍と距離を置くソウ・ゲレラは、普通に民間人を巻き添えにしながら帝国軍と戦っている。積極的に銀河帝国を覆したいというより、支配からなんとか逃れたいという感じで、想起されるのは残党狩りから身を寄せ合って隠れている、みたいな感じ。生き延びるのに必死だ。

 

これは作品に何度となく登場する「後ろ髪を引かれながらも、誰かを見捨てて逃げる」というシーンに象徴されている。主人公のジン・アーソは幼少期に母が撃たれるのを見て逃げ出すし、逃げられないというソウ・ゲレラを置いてデス・スターの暴力から逃走するし、父親の亡骸も回収できずに逃げるしかなかった。暴力や理不尽に対抗する術を持たなかったわけだ。未来の勝利のためではなく、ただその場を生きるために行動しなければならない。

 

ゲイレン・アーソの生み出したデス・スターの欠陥はそんな彼らが見出した唯一の勝機なのだけど、そういう状態にあった反乱軍はそこでも生きるための行動を――降伏を選ぼうとしてしまう。評議会で、何度となく帝国軍と争ってきたはずのジン・アーソが、戦うべきときは今と叫ぶのは、ただ戦うのではなく、前向きな意味で戦うことを意味しているわけです。そしてデス・スターの設計図を入手するための戦いに(結局なし崩し的にだけど)突入していく。

 

もちろん帝国軍と反乱軍では力の差は明白なのだけど、意義のある戦いの中で彼らは決死の行動で勝利をつかもうとする。これまで生きることが最重要課題だった人々が。そして人々の死と覚悟の上に、最後に「新たなる希望」が生まれるのだ。

 

死力を尽くして戦うこのラストバトルはもうこの作品の90%くらいを構成しているくらい超熱い。あとはなんといってもチアルート・イムウェを演じるドニー・イェンです。とんでもないアクションキレキレ野郎ですよ。こいつ格好良すぎないか。

宇宙の中心にあるもの

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12月31日公開というチャレンジングなことをした映画『MERU』を見ました。

まあチャレンジングなのは公開日だけではなかったわけですよ。

 

MERUは、未踏峰だったヒマラヤ山脈のメルー中央峰、通称「シャークスフィン」と言われる標高6250mの山に挑む三人の登山家のドキュメンタリー。ドキュメンタリーという点が大切で、クライミングシーンにCGは一切ない。要は全てセルフィで撮っている。撮影者はジミー・チンとレナン・オズターク。そのため映画の迫力は圧倒的で、挑むもののの巨大さ、自然の美しさ雄大さを余すところなく映し出している。まあ広告ポスター写真も出来が良すぎるからわかるでしょ。あとはとりあえずこれを見てくれ。

 


12.31公開 映画『MERU/メルー』未公開シーン 特別ムービー

(高いところが苦手なのでめっちゃ身が竦みました)

 

登山は多くのものを与えてくれる。しかし安全が保証できない以上、登山は正当化できない。

この映画の良いところは単に登山のことを美しい映像で流したということではなくって、三人の挑戦者――コンラッド・アンカー、ジミー・チン、レナン・オズタークの三人――がそれぞれ迷いや躊躇いがありながらメルーに挑んでいくという、人間を描いた物語であるところだ。コンラッドは師も友人も山で失っているし、ジミーはメルー兆戦前に九死に一生を得ていて、自信を失っていた。

 

その中でもレナン・オズタークは壮絶で、挑戦の半年前に大怪我を負い、元のように動けるかどうかさえわからなかった。その上、今後は高地では脳梗塞になる可能性があるという。コンラッドやジミーとしても、そういう不安要素を抱えた人間をチームに加えることで、チーム自体が危険になる可能性も考慮しなければいけない。それでもレナンはメルーに登ることを諦めないし、二人もそれを止めようとはしなかった。

 

ジミーはインタビューでこう話す。

登山家やプロの写真家として人生の大半を山に捧げてきた私は、いつも思っていました。高地でのビッグウォール・クライミングの過酷さを、観客の皆さんが本能的に感じ取れるような映画を作りたいと。そこにはどんな見返りがあり、どんなリスクや犠牲が伴うのか、少しでも多くの人に知ってもらいたかったのです。
それと同時に、情熱の追求は必ずしも美しいものではないということも伝えたかった。そこには葛藤や、迷いや、苦しい妥協が溢れている。

 

個人的には、何故山に登るのかという問いに対する答えをこの一本の映画に収めようとしているのではないか、というように感じた。大きなリスクや犠牲があり、葛藤や迷いがある中で、どうして誰も登頂できなかったほど危険で困難な山へ登ろうとするのか。

 

きっと彼らは自分の能力や精神力・仲間への信頼を厳しく問われる山との戦いの中でこそ、自身の能力や絆に確信を持つことが出来るし、「いま生きている自分」を実感することができるのだろう。困難であればあるほど己の限界が強く試され、打ち勝つことが出来ればより自信を深めることが出来る(決して過信ではなく)。

逆に失敗は自分の能力への思いの揺らぎを意味する。でも山で失ったものは山に勝つことでしか取り戻せない。だから彼らは何度でも挑戦するのだ。