僕は忘れない、あの日のことを

140字では伝えられない。

大きな買い物には人生観が出る

 また二ヶ月くらい放置していました。前回阿蘇に行ったときに、ロードバイクで踏破している人を見て自分も欲しくなったみたいなことを書いていたのですが、未だ買っていません。本当は自転車買って蕩尽の躁状態のまま何か書こうと思っていて、それが為せなかったので放置することになったというわけです。言い訳やめろ。

 

まあちょっとした葛藤があってですね。スポーツサイクルってクロスバイクロードバイク・マウンテンバイクが主流にあって、ぼくの阿蘇踏破という希望からいうと買うべきなのはロードバイクにあたるわけですよね。ただ、多くのインターネット「初心者向け」謎販促ページ(?)では、初心者にオススメなのはクロスバイクロードバイク(アルミフレーム)とされているわけです。値段帯は5~10万円くらいかな。

 

なるほどと思いましたが、ここでちょっと立ち止まって考えてしまうわけです。いやぼく超薄給だしそこで一度立ち止まるよりは、いきなりロードバイク(カーボンフレーム)みたいなそれなりのもの買ったほうが総合的に見ると安く済むんじゃない? みたいな。値段はそうですねー、20万円くらいの。特に自転車のフレームって替えられないわけですから、ここでお試しセットに決して端金ではない10万円投資するより、良いものを買ったほうが良いじゃないですか。

 

それにぼくは趣味でもわりと真面目にやりたいタイプなので、そこそこに楽しめばいいじゃんみたいなのがあんまり好きじゃないんですよね。有酸素運動経験者なら誰もが考えるであろうもっと速く・もっと遠くへってきっと考えるわけです。ぼくは日に5km、月150km走ってたころ、なんかこれ二倍走れる気がすると"ふと"思い立って月300kmに増やした経験がありますし。

 

じゃあ買えばというとそういう話にはならなくて、ぼく現実には何ごともあんまり続かない性質なんですよ。飽き性なんですね。20万円+その他諸々の装備品買って本当に続くの?(こどもチャレンジ販促漫画のママみたいだ)的な不安感はどうしてもありますよね。誰か自転車乗ってる友人が近くにいるわけでもないし。ダメージ少なく済むようにしたほうがいいんじゃない的な面もやはりありますよね。

 

というところで思考が止まってしまって、まあ時間だけが過ぎたわけです。

このくらいの規模の買い物するケースってなかったので初めて気づいたのですが、こういうのってなんというか性格が出るよなあって感じがしますね。これまでにお金を費やしてきたものって人生そのものとほとんど同じなんだなあとぼんやり思いました。

 

しかし、どうしましょうかね。誰か買ってくれるのが一番なんですけど……(チラッ

ところで薄給なのに娯楽にお金使っていいのかって? 境遇を抜け出すために投資するか何かのときのために貯蓄するべきではって?

ごもっとも。

でもですね、先ほど書いたとおり、大きな買い物には人生観が出るんです。

音が消える場所(熊本-天草旅行:二日目~三日目)

昨日は熊本城を見てまわったところまで。

 

熊本駅から、三角駅という天草諸島の入口にある九州本土の駅までは、特急A列車という観光列車に乗りました。

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あ、車内の写真ほとんど撮ってないな(酷い)

車内も雰囲気が良いです。なんとですね、車内にバーがついてるんですよ! これから車運転するのでお酒は飲めませんけど。車内はずーっとジャズ「A列車で行こう」が流れていました(同行者に曲名を教えてもらいました)

それから、乗車記念に何日に乗りましたというプレートと記念撮影もしてくれました。

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通る場所も素敵です。

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わかるかな……。車窓から一面の海が広がります! 熊本駅からだとC席、D席が海側になりますね。ちなみに見て分かるとおりA席でした。やはり人気で取りにくいっぽい。

 

そこから本渡という天草の中心部まではフェリーで向かいました。

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やはり海が綺麗です。

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なんかカヌー?の名所っぽい。彼以外にも複数いました。楽しそう。

 

本渡でレンタカーを借ります。車を借りたトヨタレンタカーまで港から2kmくらい。個人的にはこれは夏だろうと余裕の徒歩圏内なのですが、港で案内を見ていたらタクシーのおじいちゃんに呼び止められ、お天道様に殺されちゃうよ!(意訳)と熱烈な営業を受け、タクシー乗りました。気温と熱意に負けた。

レンタカーを借りて、ご飯を食べたら崎津という有名な教会へ向かって出発です。ちなみに天草は寿司が良いという話をフォロワーのフォロワーに伺っていたのですが、伺った二件はどっちもいっぱいで予約のみでした。天草どんだけはやってるの寿司。

 

市街地を抜けて少し行くとガチ田舎という感じになりました。最高。感傷者たちの夏は田舎なんです。わかりますね?

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ここは途中で車止めて見てまわりました。(人が生活している場所なので当然観光的な何かは何もないです)

なんかね、とにかく静かなんですよ。いや、虫の鳴き声とか、鳥の鳴き声とか、遠くのポンプの音とか、音はあるんですけど……人の気配が全然なかったからでしょうか。セミとかうるさいだけやんけ! と思ってましたけど、芭蕉の「しずかさや」の歌はこういうことだったのかなあと思いました。

 

と感傷の末、崎津へ。

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港から。教会の立地がめっちゃ良い。

 

そして教会です。

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尖塔! これゴシック建築だ! チャレンジでやりました!!

中はなんと畳敷きでアットホームな感じでした。天草も長崎同様、厳しい禁教政策の中で信仰を守り続けた場所です。今建っている場所も、元々は踏み絵が行われていたお屋敷だったそうですよ。

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手前から二件目の家は軒先に注連縄が飾ってあります。「天草は寿司」のフォロワーのフォロワー曰く、これは自分たちは隠れキリシタンではありませんよ、という主張のために正月をすぎてもつけていたそう。その風習が今でも残っているのですね。(有益な情報ばかりくれるめっちゃ有能)

まあこれ本当は猫撮ってたんですけどね。長崎の池島もそうでしたけど、人口が少なくなった町は猫の町になるっぽい。猫。猫。猫。他にも猫がたくさんいました。

 

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教会の反対、山側には崎津諏訪神社があります。キリシタンも参詣していたんだそう。不思議ですね。ちなみに拝殿を抜けると500段くらい(数えた)の石段があり、展望所へ向かえます。死ぬほど暑かった。

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しかし登ったかいがありましたね。景色が良すぎる(語彙力)

といったところで下山し、今日泊まる苓北町天草下島の北の方です。熊本の電力の大半をまかなう発電所があるそう)の民宿へ向かいました。途中は夕日の名所がいくつかあったのですが、夏は日が長く、見所はもう少し先という感じでした。残念。でも綺麗でした。

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で、めっちゃ迷った。カーナビに民宿の電話番号を入れると山中が表示されるんですよ。ダムに着く。地図会社ゼンリンを許すな。民宿の経営者は33歳のイカしたあんちゃんでめっちゃ面白かったです。同行者は年齢が近いこともあって意気投合したらしく、話し込んでたら別の宿泊者に共同経営者ですかと訊かれたらしい。めっちゃウケるな。

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泊まったところはこんな感じです。蝉と蛙の鳴き声が響き渡っていた。

といったところで二日目は終了です。ご飯おいしかった。

 

北の方を通って帰る予定だったのですが、複数の天草民(本渡のタクシーの運転手と民宿のあんちゃん)の「牛深はいいぞ」トークを受け、来た道を戻って天草下島南端の牛深へ。途中に昨日寄る時間のなかった、もう一つの有名な教会である大江教会へ。

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こちらは小高い丘の上にある教会で、やはりロケーションは最高でした。(天草最高じゃない景色ない説もある)

中に平和のための祈り(調べたらフランシスコの平和の祈りというみたいだ)というのが掲載してあって、そこの『慰められることよりも慰めることが、理解されることよりも理解することが、愛されることよりも、愛することができるようにさせて下さい。』ということころで感じ入ってました。

こんなことtweetしてたからですかね。

 

ふもとにはロザリオ館という資料館があります。キリスト教の広がり・弾圧・島原草の乱、そして信仰の復活と一通り学べる良い資料館でした。観音をマリア像と見立てる観音マリア像や、口伝の中で意味不明の呪文と化した、元はヘブライ語だったオラショ(祈祷文)なんかが興味深かったです。

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 それから牛深の方へ。

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海がヤバいくらい綺麗(語彙力:二回目)

 

ここで魚正という、民宿のあんちゃんがお勧めしてくれた魚屋へ行きました。おいしい。

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選曲センスがザ・昭和でいいよという話を受けてきたのですが、確かに昭和でした。というかこの一帯はここに限らず昭和感があると思います。

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(料理店遠景。一回はお魚屋さんで、二階で料理がいただけます)

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となりのお土産やさん。雰囲気良いですね。店主の品の良いおじいさんと少しお話をしました。

牛深はまあ観光地っぽさがゼロで、ただ海と人々の生活がありました。

人の営みを見てきたのだと思っています。まあ本当は都市部で行き交う膨大な数の人々にもそれぞれの人生があるんですけどね。

 

といったところで熊本市内へ戻ります。車の返却は市内で行います。

 

めっちゃ混んでた。大渋滞です。天草から車で熊本に戻る橋はひとつしかないので、そこで混んじゃうのかもしれません。その辺は運転してたんですけど、同行者がLA.LA.LANDのAnother day of sunを散々リピートするのでめっちゃ不吉な選曲じゃんとか言ってました。

16時に解散予定で17時に車返却の予定だったんですが、到着は18時で当然のように間に合わなかった。この旅行スタートはともかく一回も終わりの時間に間に合ってないな。ある意味凄い。

 

 

そんな感じで終わり。天草は静かで綺麗な場所でした。三日とも晴れて本当に良かった。長崎のようなここも行きたかった系は特になし。今回は、ぼくは満足です。

まあ今回何よりも良かったのは無事に旅行を終えたことですね。マジで運転はヤバいと思っていたので。まあ実際ヤバいところもいくつかあったと思いますが、ゼロ災で最後までいけたので。

でも次は時間を守る力を身につけたい(無理そう)

 

ゼロ災へ(熊本-天草旅行:一日目~二日目朝)

というわけで、三連休は熊本にいました。交通の便にかなり問題があるということでレンタカーを借りたのですが、ぼくも同行者も完全にペーパードライバーでかなりヤバい感じでした。過去一番危険な旅行だったのでは。無事で終わって本当に良かった。ちなみに今日も一日ゼロ災で行こう・サーキットに行け(後述)などの文言が飛び交う車内でした。

 

日程は初日の昼~二日目の朝まで熊本で、そこから天草に移動して三日目に熊本に戻ってきて終了という感じ。熊本は市内ではなく阿蘇の方へ行っていました。ということで感想書いていきます。

 

昼について危険が危ない感じ(最初の方は本当に危険だった)の運転で阿蘇方面へ。国道57号線というのが市内から阿蘇へ向かう大きな道路なのですが、一年前の地震の影響で阿蘇へ向かう途中で封鎖されているので、途中で迂回する必要がありました。その他も阿蘇へ至る道路は大半が封鎖されていて、未だ事実上一箇所に集約されている感じではないでしょうか。春くらいまではどこも封鎖されていたみたいですし、近くを通る豊肥本線という電車は肥後大津から阿蘇間で現在も運転見合わせ中です。

 

とはいえ迂回して通るミルクロードという道はそれ自体が観光地みたいな道で、うおー綺麗綺麗と言いながら車を走らせていました。他にWindowsで見たなどの発言もありました。写真では分かりませんがが、何が凄いって見渡す限り360度こんな景色なんですよ。壮大な原野なんですね。美しい。ただし帰るときは似たような場所と道路が続くので逆に迷いかけました。持ってて良かったGoogleMap。

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それから北山を経て大観峰という山へ。外輪山を尾根伝いにぐるっと大回りする感じでしょうか。大観峰阿蘇の北の外輪山では一番大きな山です。

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画面右がカルデラ内にある阿蘇五岳……でしょうか。うち三つ見えて中央がたぶん噴火口がある山です。(適当)そういえば周囲にぐるりと山があって、平地が続いた後おおきな火山があるというのなんとなくロード・オブ・ザリングっぽいな(伝われ)

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外壁は概ね断崖になってて結構怖い。

大観峰大観峰って石碑があったり立て札があったりしたんだけど、撮ってないのでどこからが大観峰の写真かが思い出せない(酷い)

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これは間違いなく大観峰でとりました。画面の中央辺り、この稜線上に二人組がいるんですけど、わかりますかね。よく見たらいます。凄い大きさなんですよ。

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これも大観峰の写真です。中央に二人組がいますね。

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というわけです。

実は本当の目的地は草千里という場所だったのですが、大きな迂回が必要だった上に山に入る辺りで相当な渋滞をしていて、時間的に限界だったのでここで撤退。そもそも同行者もぼくももうここがゴールでいいんじゃないかな的な満足をしていました。でも道路が全て通るようになったらまた行きたいところです。

 

下山する際に、「じいちゃん飛び出し注意」「急いでも五分も変わらない」などといったスピード規制の標語看板がぼこぼこと現れ、その中の一つが「サーキットに行け」でした。(写真は撮れなかった)

「サーキットに行け」は余りの語感の良さに同行者と大爆笑し、これで事故ったらどうするとか言ってました。市街地ではなく山道やリアス式海岸の海岸沿いなどカーブの多い道を運転していたこともあり、その後の三日間にわたりスピード過多の車を発見するたびにこの標語が口に出ることになりました。皆さんも使うと良いですよ、サーキットに行け。

 

その後熊本市内に戻る前に地震で大きな被害を受けたという益城町へ行きました。あまり観光気分で行くようなものではないと思うのですが……

普通の民家なのであまり大っぴらにするものではないのかなと思うのですが、未だ傾いでいる家や、崩れた家などそこかしこに見られました。ぼくたちは町の中心付近しか見ていないので、山間部はもっと酷いのかもしれません。もちろん新たに建築中の家もたくさん見ました。

 

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町役場からすぐのところにある木山神宮は特に地震の大きさを身をもって体感しました。本殿は倒壊したままで、周囲のものも倒れたり崩れたりしていました。

 

言い方は良くないと思いますが、見るべきものを見たと思っています。

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車を返し(当然のように当初の返却予定時間には間に合わなかった)ホテルへ。熊本ラーメンを食べて寝ました。慣れない運転で異常なほど疲れました。早く寝たわけじゃないですけどね。

 

朝起きて熊本城周辺をぐるっとまわりました。こちらも天守をはじめ多くの被害を受け、未だ大部分は入ることができません。

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(被害状況の写真ばかりアップロードするのは行儀が悪いと思うのですが)

ちょっと撮り忘れたのですが、城内公園にはところどころ石を並べておいているんですね。何なのかと思ったのですが、石垣を修復する際に、

1.石材の特徴を調べる

2.元の石材がどこにあったのか調べる

3.実際に積み直す

という、気の遠くなるような巨大ジグソーパズル的修復法をしているらしく、そのための仮置きだそうです。真摯な修復方法に感動してしまいました。

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今のところ、天守閣をもっとも近くに望めるのは、加藤清正を祭っている加藤神社の一角でしょうか。加藤神社は城内にあるので目の前の堀は内堀のはずなんですけど、堀の高低が大きくてびっくりしました。大きなお城だ。

 

といったところで二日目の朝まで終わり。天草までの移動からはまた今度。

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ちなみに権威主義体制下にありがちな壁面に描かれた最高指導者の絵も熊本城の目の前にあります。(同行者がtweetしたらわけわからんくらい伸びて爆笑していた)

 

感想なのですが、道中に阿蘇山ロードバイクで踏破するつわものを見てめっちゃくちゃスポーツ自転車買いたくなりました。つい最近沼沈めフォロワーが現れたこともあり。まあ登坂するのははっちゃめちゃに鍛えないと無理でしょうけど、あの景色の中自転車走らせるの最高っぽいなと思いました。まあ実際やったら早く下り坂になれと思いそうだけど。

その一瞬は永遠となるか

前回の記事を見ると2月26日付で如何に放置していたかが可視化されてしまっていた。ついでにブックマークからブログトップを開くと自動ログインが切れていて書く気すらなかったことが丸分かり状態だった。まあいいよね。定期的に更新するなんて言っていないし。

 

GW中特に遠出することもなくごろごろしていたら、あっという間に終わりを迎えつつあるわけですが、それはともかくGW期間中に映画を6本くらい借りてしまったので頑張って見ているわけです。多い。まだ3本くらいある。多い。

 

頑張って感想を書きます。そういえばラ・ラ・ランド見たのに感想書いてないな。まあ各所で絶賛されているのでそういう感想を参照にしてください。(投げやり)

 

 

ザ・ウォーク

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大道芸人フィリップ・プティが綱渡り師を志し、そしてワールドトレードセンターの二棟を綱渡りするに至るまでの物語。

 

怖い。

ぼく高所恐怖症なんですよ。腰浮かしましたもんね。いてもたってもいられない感じで一部立って見てました。映画館の迫力でこれを座ったまま見るの拷問じゃないですか。怖い。一方でその恐怖感が高さの美しさと繋がっているわけです。質悪い映像美だ。

 

作品全体の雰囲気は非常に明るいのだけど、準備(無許可で綱渡りをするのは違法です)でも綱渡りでもスリルを失わないのはフィリップの共犯者たちが「普通の人間」だからなんでしょう。捕まるのは怖い、高いところは怖い。(そういう人間たちに容赦なく任務を与えるさまにフィリップの人間性が出ている。特に地上400mで高所恐怖症の男に作業させる様は異常だ)

 

作品のテーマは一瞬と永遠。

フィリップが違法行為の綱渡りを行うのは永遠に名を残すためだったが、ワールドトレードセンターを綱渡りする中に永遠を感じる。綱渡りにおいて「敬意を表す」の意味が分からなかった彼がはじめて礼をするのは、綱渡りの外ではなく、その中に本質を見たからだ。

アイルトン・セナが時速300kmで神の世界を見たといったが、将棋にも思考の最中時速300kmの世界がある」

 とは羽生三冠の言だけど、フィリップが見たのも『時速300kmの世界』ではなかったか。極限の集中の中で不確かなはずの一歩は確固たる一歩となる。「ボールが止まって見えた」かのように、あらゆる状況に即座に対応できるよう一瞬の感覚が長くなっていく。

フィリップは長くその感覚を味わおうとするが、その一瞬は本当の意味で永遠ではない。レースには終わりがあり、将棋にもいつか終局が訪れる。綱渡りも同様だ。人はワイヤーの上で生きていくことは出来ないし、大きな負荷がかかっているワイヤーにも限界がある。ワイヤーから降りる中で、その永遠は元の一瞬へ戻っていく。

 

その芸術は一瞬で終わらず、フィリップの名を残すだけで終わるわけでもなく、ワールドトレードセンターへ永遠の命を吹き込んだ。フィリップに贈られたワールドトレードセンター展望台の期限が「永遠」であったように。 しかしその永遠が本当の意味で永遠足りえなかったことは、誰もが知っている。地上400mの恐ろしくも美しい光景もニューヨークの象徴であったその威容も、永遠の美であり、過去の一瞬の美でもあるのだ。

 

一瞬と永遠がテーマになることは見ればわかる(このテーマで書こうと思ったら先に本質をばしりと書かれていたのでぼくは泣いた。パクリじゃないからな)

amberfeb.hatenablog.com

 

 

王道――その挑戦的な揮毫

第75期A級順位戦は2月25日に全日程を終えた。竜王戦のごたごたがあって、A級順位戦も消化不良の一面があったことは否定できないが、8勝1敗のすばらしい成績を残した挑戦者には誰も異論を挟まないだろう。稲葉陽八段は昇級一期目にして挑戦権を掴んだ。

 

稲葉八段は名人佐藤天彦と同い年の関西の棋士だ。個人的には、やや受け将棋よりではないかなと思う。7月の王将戦一次予選では生粋の攻め将棋の畠山鎮八段に、忍者銀という守りが薄い代わりに攻撃的な戦法を使ったにも関わらず、最終的には受けまくって勝っていた。

 

佐藤名人も昇級一期目で8勝1敗の成績を残して挑戦権を獲得し、王者羽生善治を下して名人となった。今度は立場を変え、勢いに乗る挑戦者を迎え撃つことになる。ところで、名人は棋戦叡王戦も優勝し、名人戦が行われるのとちょうど同時期に、電王戦で将棋ソフトPonanzaと対局することになる。Ponanzaはとても攻撃的な棋風だ。そしてべらぼうに強い。名人はタイプの違う強敵と同時期に戦うことになった。苦戦は必至だろう。

 

佐藤名人はよく「王道」と揮毫する。ぼくは最初みたときとても挑戦的だなと思った。自分の指し手は王道である、少なくとも目指す先は本筋そのものであると意思表明するのは勇気がいることだ。たとえばぼくが自分の将棋を王道と称したら死ねあんぽんたんと言われておしまいだ。プロ棋士の中だって、自分の将棋は王道ですと言い切れる人はそんなに多くないと思う。将棋の宇宙の中で、自分の選ぶ指し手こそが王道であると言い切るのはとんでもなく挑戦的なはずなのだ。

 

王道。目指す目標として書いているのかもしれないが、佐藤名人の将棋は「これが王道か」と捉えられるようになっている。奇抜に走らず自然な指し手を積み重ねて自然に勝つ、王道の将棋。この揮毫はもう佐藤名人の棋風を表す言葉となった。その言葉が挑戦的と言う人はもういないだろう。

 

四月から名人戦・電王戦と、苦しい戦いが続く。それでもきっと、名人の将棋は王道から外れない。四月からの戦いを楽しみにしている。

感想文の難しさ/思い出したようにブログを更新する理由

なんでブログはじめたのといわれるとまあ140字以上書きたいことがあったからなんですが、かといってそれを書き終わったらそれで終了というのもちょっともったいないので少しは有効活用しようという話なんですね。

 

それで何を書こうかなあとなったとき、敬愛すべきブログ先輩こと宇宙、日本、練馬に倣って映画やら本やらの感想を書こうかなとなったわけですね。(更新頻度の高い良いブログです!)(ものすごい馴れ合い方だ)

 

といっても僕は読書感想文の類が死ぬほど苦手だったので毎回苦慮します。

自分が作品の本筋からかなり離れた感想を抱いていると思うことは結構あって、だけどそれを修正してしまうとそれお前が文章を書く必要あるのという話になってしまいます。このブログを見る以上、恥ずかしいことに見に来るのは僕の感想なわけですよ。他の誰かのものではなく。とすると、その作品のバックボーンや理屈から言って作品が伝えたかったことが何であるか下手に推察するより、お前がどう思ったのかの方が、今この場においては重要なことじゃないの、となるわけですね(もちろん作品の本質から離れないところで感想・意見を綴った文章は無数に存在していて、こういうのが"良い"感想文なのだろうなと思います)

 

でも、虚心にそれを書くのは結構な訓練が必要だと思うのですよ。

「ビジネスの世界の論理といのちの電話の世界って、全然違うことが分かったんです。研修では『自分の気持ちは何ですか?』という訓練をやるんだけど、最初は自分の気持ちを全然出せなかった。ビジネスの世界では、自分の気持ちは置いておいて『事実はどうなんだ?』ってやる。ここの研修はそうじゃない。『あなたはどう感じたの?』ってずっと聞かれます。それまでは自分の気持ちに蓋をして生きていたから、最初は苦しかった」

 引用元:なぜ、あなたの声を聴き続けるのか 「いのちの電話」相談員 - Yahoo!ニュース

 

国語教育の敗北というのは流石に言いすぎですけど、とても成績の良かった(謙虚な表現)僕にとっては現代文というのもなんて書いてあるのという話になっちゃうんですよね。センター試験とか全体的に最大公約数の回答を選ぶ感じですものね。でもそれはここで求められる能力ではありません。

 

僕はどう思ったのか。これを書くのも訓練が必要だし、そもそも自分がいつ・どういう感情を抱いたのか・なぜ抱いたのかと感性を研ぎ澄まさなければいけないですよね。

 

日常生活でこういうことをする経験はあまりないので、まあこの場を借りてやってみたいわけです。訓練しておけば人に本や映画を勧めるときにちょっと得をするかもしれませんし。と、まあ、そういうことを5%くらいは考えて、すんでのところで放置はやめようと思うわけです。後は文章の構成とか文章力とかちょっとだけでも向上したら良いなあと思いますね。どっちかというとこれは触れる文章(量)に拠るのではと思わなくもないですが。

 

ちなみに残りの80%は惰性です。前に映画見たときも更新ししたしなんとなくね。

残りは見栄。放置ブログって恥ずかしくない?

我々が信仰するもの

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人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです

 

というわけでスコセッシの『沈黙-サイレンス-』を見ました。ちょうど長崎にも行きましたからね。といっても平戸も五島も行ってないしトモギ村の元になった外海地区も池島にしか行ってないのですが。そんなわけで舞台になった場所はだいたい通ってしかいないのですけど、ものすごく海が綺麗な場所でしたね。遠藤周作文学館も外海地区にあるようですが、時間の都合上いけませんでした。いつか行ってみたいところです(その前にまず原作を読め)

 

はい、原作未読(あらすじはwikipediaで知りました)です……

 

江戸時代、日本では苛烈なキリシタン禁教政策が敷かれていた。そんな中でヨーロッパに日本で布教を行っていた神父フェレイラが棄教したという知らせが入り、フェレイラの弟子であったロドリゴとガルペは師の探索と日本への布教という使命を帯びて、危険を冒して日本へ密航を図る。日本へ上陸した二人の神父の信仰心は、激烈な弾圧の前にどう変化していくのかーー

 

そんな感じです。

作中で再三にわたって言われるのが、踏み絵は形式だけのことだからということです。悪人ならぬ日本のお役人たちは、当然の倫理観として殺さないで済むなら殺さないほうが良いし踏んでしまえという。でも多くの信徒にとってはそうではないために結果として殺されてしまう。

 

ロドリゴは最終的に踏み絵を踏み棄教することになるのだけど、その本心は分からない。フェレイラも終盤信仰を捨てきっているわけではないことが示唆されている。筑後守はロドリゴに対して、お前は私に負けたのではなく日本という沼地に負けたのだと言っているのだけど、このことを鑑みると勝ち負けが逆転しているように思える。つまり、布教という使命は教義を変容させていく日本では確かに上手くいかなかったのだけど、信仰心まで奪うことは出来なかった。形式だけだから、というのは心を操作できないことをはっきり明示している。司祭という根を刈り取ったからもう良いと筑後守は話すが、その後この地ではキリスト教の信仰を取り戻したことを我々は知っている。(カクレキリシタンという別の宗教も確かにあるのだけど)

 

多分主題は、無知を啓くみたいな感覚だったロドリゴが、弱者と共にあり共に苦しむという真の信仰を手にするということなのだろうけど、僕は形を廃して真の信仰にたどり着く、というように見えるなあという感じにも思えた。

 

しかし舞台になった1640年からでも200年以上の時のあいだ、長崎で信仰を保ち続けたのだなと思うと、やっぱり圧倒されてしまいますね。僕が訪れた浦上天主堂は江戸から明治初期の弾圧や原爆の被害を受けてなお、あの場所に建てられたのだと思うと胸を打つものがありますね。

 

これはもう感想というより完全に自分語りなんですけど、個人的に一番心に残ったのは、拷問が繰り返される一方で神の奇跡と勝利は訪れず、神が沈黙を貫くことでロドリゴの信仰心は揺らいでいく。その中で、「自分が信仰しているのは無ではない」と必死に言い聞かせるところです。

 

僕は信仰があるかないかと聞かれればあると思っていて、たとえば御守りは徒に踏まないし作中みたいに祭具に唾を吐くとかも罰当たりだからそうそうしたくない(罰当たりというのも信仰がないと生まれない発想だ)ですけど、じゃあ宗教があるのかと訊かれるとありません。多分本当は仏教徒のはずなんでしょうけど、菩提寺も知らないし浄土真宗か浄土宗か日蓮宗かも怪しい人を普通は仏教徒とは呼ばないでしょう。もちろん神道でもないしその他の宗教徒でもありません。初詣に神社行くけど。

 

要するに信仰はあって宗教はないわけです。僕は多くの日本人がそうじゃないかなと思っています。それで僕はたまに、自分が信仰しているのは一体なんであるのかということを考えるのですけど、そうなると無であるとしか言いようがありませんよね。漠然と何かを畏れているというのが正しい。

 

だから、神を信仰していたはずのロドリゴが陥った感覚というのはそういうのにちょっと近いのかなあと思ったわけです。それでも彼は無ではないものへの信仰の火を灯し続けるのだけど。

そういえばクリストヴァン・フェレイラとか西洋人の格好が完全にジェダイでしたよね。クワイ=ガン・ジンだからね、仕方ないね。あと僕はガルペ役のアダム・ドライバー演じるカイロ・レンくんを熱烈に応援しています(完全な蛇足)

 

 きっと読むから許して……

沈黙 (新潮文庫)

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